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エダヒロの本棚

女子エコ日記 366days おしゃれとエコって、両立するの?
翻訳書
 

ヴァネッサ・ファーカーソン (著)
枝廣 淳子 (翻訳), 長澤 あかね (翻訳)
講談社

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カナダ発、おしゃれにも敏感なフツーの女性である著者が、地球のためのゆるやかな取り組みを記し、1日1エコをブログでスタート。本書はそれをまとめた366日間の「汗」と「涙」と「笑い」の格闘物語です。彼女や彼女の周りの世界はどのように変化していったのでしょう。日々の取り組みは、とてもユニークなものや、すぐにマネしたくなるものなど、おしゃれとエコを両立するための多様なアイデアがぎっしりとつまった楽しい一冊です。モノと自分との関係性を見つめ直すことをきっかけに、自分にとって本当に必要なものは何なのかが少しずつ見えてくるのではないでしょうか。

訳者あとがき

世の中、エコブームだ。極めてピュアにハードコア的にディープなエコを追求している人もいれば、おしゃれ系というかムード系というか、とりあえず「エコは流行っているから」と、時流に乗っている向きもある。日本でも、環境や健康に気を配って生活し、そのような商品であれば、多少高くても買うという「ロハス」と呼ばれる消費者が、市場の三割を占めているともいわれている。

 少し前までは、スーパーのレジ袋をごく当たり前に受け取り、家の中にくるくる丸めたレジ袋がたまっていくのが普通だったのに、今では、セレブから一般の人まで、(それがエコのためか、レジ袋が有料になったせいかは別として)マイバッグを持ち、レジ袋をもらわないのが標準となりつつある。

 とは言っても、レジ袋の素材は、原油を精製する中でもともと使われない成分で作っているのだからリサイクルみたいなものだ、レジ袋を使わなくなったって、原油の消費量が減るわけではない、上質な成分で作るしっかりしたマイバックをいくつも持っているほうが反エコではないか、という声も聞こえてくる。「本質は細部に宿る」と言うが、使い捨ての紙おむつと、水と洗剤と電力を使って洗濯する布おむつでは、どちらが本当にエコなのだろうか? 私も著者と同じように、遠くから運んできた有機野菜と、地場で栽培した農薬使用の野菜では、どちらがエコなんだろう? と、スーパーの棚の前で五分も立ちつくす“ヘンな消費者”をやったりしている。この世界はとても深いのである……。

 本書は、カナダのうら若き女性が、武道ならぬ「エコ道」を1年間猪突猛進していった様子を、単に「何をやったか」ではなく、「その時、何が自分の中で起こったか、周りの世界がどのように変わっていったか」を通じて描いた、とてもユニークな書物だ。

 彼女は、いとおしいほど超マジメでありながら、ときに爆発し、ときに斜に構え、エコ・オタクや世間のエコ風にツッコミを入れつつ、ツッコミを入れる自分にもツッコミを入れる。あちら立てればこちら立たずという(エコにはよくある)ジレンマにまじめに悩んで立ちすくんだり、気を取り直して勢いよく進んだり、そのあげくにミミズをぶちまけたり、本当に大事な愛する人を発見したり、それはそれは波瀾万丈の一年間の記録である。

 カナダではお箸は使わないから、三百六十六日のトライの中には「割り箸を断ってマイ箸を使う」という項は出てこないけれど、本書を読んで十数年前、マイ箸を使い始めたころのことを思い出した。当時、マイ箸を使う人といえば、ごく限られたディープでハードコアなエコ派と相場が決まっていた。そんな中で、私自身はそれほどディープでもハードコアでもなかったので、なかなか人前でマイ箸を取り出して使うことができなかった。何ヵ月もの間、持ち歩いているのに割り箸を使ってしまう日々が続いたあと、何かのきっかけで、ようやくマイ箸を使えるようになった。その頃、マイ箸を使う人は珍しかったので、なかなかの苦労があった。マイ箸を使っていると、十回に一回ぐらいの割合で、からんでくる人がいるのだ。「あなた、そのマイ箸で世界の森林を救えると思っているの?」

 わずか十年で状況は大きく変わり、今では、マイ箸を持っているのは普通だし、セレブだってマイ箸自慢をしているし、マイ箸を持つことを応援したり、一緒に楽しんじゃうという飲食店だってある。マイ箸を持っていくだけで、さまざまな割引やサービスが受けられる、「マイ箸=クーポン」として扱ってくれる飲食店も増えているのだ。世の中って、あっという間に変わるのね!

 一九九九年秋に始めたメールで内外の環境情報を伝えるメールニュースで、マイ箸の話を紹介したのは二〇〇〇年のことだった。同じ年に、一家に一台、一人一台クルマを持つのではなくて、レンタカーをもっと使いやすく、使いたいときに使いたいだけ車を使う「カーシェアリング」という新しいしくみがスイスなどで始まっているらしい、ということもメールニュースで紹介している。

 今では、山手線のどの駅で降りてもカーシェアリングが使えるほど、カーシェアリングを提供する会社が全国で増えているし、「カーシェアリング付き」をウリにしている分譲マンションも増えている。

 最初にカーシェアリングの紹介をした時、「日本人はきれい好きだから、ほかの人が使ったクルマなんて使いたがらないよ。だから、日本では絶対に広がらない」と言われたものだ。でも、このご時世、「シェア」は流行りであり、時代のキーワードである。クルマだけじゃなくて、おうちをシェアしちゃうシェアハウスだってあるし、要らなくなったものをネットで交換したりあげたりする「現代版お下がり」のしくみだって人気があり、みんな他人の使ったものもごく普通に使っている。

「人のモノの見方や感じ方って、簡単に変わるものなんだなー」――この十年ほど、メールやブログでエコ情報を発信し、いろいろな人たちからのフィードバックをもらいつつ、日本の社会の様子や変化を見てきて、そう思う。何がかっこいいか、何がすてきか、何がダサイのか。そういったモノの見方や感じ方なんて、割とカンタンに変わってしまうものなのだ。

 私たちがふだん無意識のうちに前提にしている思い込みや社会通念、メンタルモデルというものは、ふだんと違う何らかの取り組みをするときに浮かび上がってくることが多い。そのときに、「これまではそうだったけど、いつもそうでなくてもよいかもしれない」と、その思い込みをゆるめることができたとき、いわゆる「ライフスタイルの変化」が引き起こされるのだろうと思う。

 著者の一年間の「汗」と「涙」と「笑い」の格闘物語を読みながら、「エコって結局、モノと自分との関係性を見つめ直すことなんだよなあ」と思った。そして、「何は譲れないか」「何は譲れるのか」と自分の中で折り合いをつけていく中で、絶対に必要だと思っていたものが、実はそうではなかったことがわかったり、本当に必要なものは何なのかが少しずつ見えてきたりする。

「エコ道」とは、自分の存在や人生の本質へいざなってくれる、とてもエキサイティングな道なのだ。同時に、これからの時代を生きていく上で必須の、「割り切らない力」も鍛えることができる。エコって人生と同じで、「絶対に○○のほうが良い」とか、「絶対に××は環境に悪い」とか、一面だけを見て決めつけることはできないものなのだ。物事はおしなべてもっと多面的で、是があれば非もあり、どのようにそのバランスや折り合いをつけていくかは各自が考えなくちゃいけないことを理解するとき、「○○は××だ」と割り切って、そこからはみ出すさまざまなものにはフタをするのではなく、しなやかに強い「割り切らない」力を身につけていくことができる。

 著者の一年間の格闘物語は、「何をやって、何ができたか、できなかったか」ではなくて、そういったさまざまな自分に課したチャレンジを通じて、彼女自身が人間としてどのように成長していったかという成長物語でもあるのだ。そこに私たちはワクワクし、惹きつけられる。

 そうそう、本書を読んで、私もすぐにマネしてみたことがある。「なぜもっと早く出会わなかったのだろう!」と思うほど、すてきな発見だった。この先の人生を大きく変えてくれた、その発見が得られただけでも、本書を訳してラッキーだった! と思っている。一緒に翻訳してくれた長澤あかねさん、編集者の青木由美子さんに心からのお礼をお伝えしたい。

2010年春
                                        枝廣淳子

 

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