エダヒロ・ライブラリー執筆・連載

2014年08月08日

ハーマン・デイリー氏に聞く 「定常経済」へ、いまこそ移行すべきとき(出典:「世界」2014年8月号)<その2>

 

出典:岩波書店「世界」no.859 2014年8月号

聞き手:枝廣淳子

(その1よりつづき)
■スループットとGDP

―そもそも定常経済とは何か、詳しく教えてください。
 定常経済とは、基本的に一定の人口と一定の資本ストックを持つ経済です。ここでの資本ストックは、幅広く定義しており、すべての耐久消費財も生産財も含まれます。
 人間も資本ストックも、エントロピーの法則に従っています。人間は年老いて死んでいきますし、机や椅子にしても壊れて取り換えなくてはならなくなります。

 定常経済の定義は、「人口と資本ストックが一定で、それを可能な限り低いレベルでのスループットで維持するもの」となります。
 エントロピーの法則に従う人口や資本ストックを一定に保つには、維持したり置き換えたりするための資源が必要になります。この資源を地球から取り出し、汚染物として地球に排出するところまでをスループットと言います。この資源のスループットをできるだけ低いレベルにして、地球の扶養力の範囲内に抑えます。

 人口と資本を維持するスループットのレベルは、長期間にわたって人々が「良い暮らし」を送るのに十分であるということ。これが定常経済の考え方です。そうしたとき、進歩とは物理的な量的拡大ではなく、質の向上を通して得られることになります。デザインや技術、倫理的な優先順位の向上などが発展の要素になってくるのです。

 今「定常経済とは、一定のストックを最小限のスループットで維持するもの」と言いましたが、逆から見て、「定常経済とは、一定のスループットでサポートできる範囲でストックを最大化するもの」という考え方もできます。同じことなのですが、スループットを一定にすると言ったほうが、地球の扶養力との関連が直接的にわかりやすいかもしれませんね。

―スループットはどうやって測るのでしょうか?
 よく知られているエコロジカル・フットプリントも役に立ちますし、マテリアルフロー・エネルギー勘定も国民所得勘定のグリーン化を目指して研究されています。GDPを置き換えるまでにはなっていませんが、サテライト勘定として位置づけられています。スループットはさまざまなものの総計ですから、測るのは難しいですし、そう言われるのですが、GDPはさらにさまざまなものの総計ですから、「GDPこそそうではないか」と言えるでしょう。

―スループットのレベルの現状はどうなのでしょうか? エコロジカル・フットプリントの計算では、現在の人間活動を支えるのに地球1.5個分が必要とされていますが、地球は1個ですから、1以下に下げなくてはならないのですよね? ええ、そうです。環境的な扶養力には2つあります。資源を再生する再生能力と、廃棄物を同化する同化能力です。再生可能な資源については、この両方が大事になってきます。
 人間の時間軸では再生できない再生不可能な資源については、今すべて使ってしまうのか、それとも未来世代と分かち合いながら使っていくのかという倫理的な問いになります。

―先ほどの定常経済の定義で出てきた、「良い暮らし」とはどのように定義するのでしょう?
 重要な哲学的な問いですね。さまざまな研究からも、また常識的にも「十分」というレベルがあるのだと思います。物理的な富が増えていくとき、あるところからは、富が増えても幸せはそれ以上増えなくなります。より幸せにならないとしたら、何のための成長なのでしょう? しかし経済学者は、こういった問いは聞かれたくないのです。

 再生不可能な資源を未来世代と共有するとき、その重きをどうするかということも考えなくてはなりません。今があってこそ未来がありますから、まず今必要なものを考えるべきだということではありますが、しかし、未来世代にとって必要なものは、現世代のぜいたくよりも上位に来るべきです。

 こういった問いは経済学でも重要な問いでしたし、かつての経済学者は考えてきたことです。しかし、今の経済学者はこういったことは語りません。「それは価値に関する判断だ。われわれは科学者だから価値判断はしない」と言うのです。

―定常経済とは、GDPが成長しない経済ということでしょうか?
 いいえ、GDPは成長する場合も、縮小する場合も、同じ場合もあるでしょう。定常経済の観点からすると、GDPは関係ないのです。人々の幸せを測る上では、あまりにもおそまつな尺度ですから、私は気にしていません。
 とはいえ、GDPはみなが注目する数字です。興味深いことに、GDPはスループットのかなり良い指標となっています。GDPが増えれば、スループットも増えるというわけです。

―GDPはスループットと高い相関があり、スループットは一定にすべきとしたらGDPもゼロ成長になるのではないでしょうか。
 それは相関から出てくる結果です。スループットを一定にすると、スループットはGDPと相関しているから、結果的にGDPもゼロ成長になる、ということはあるでしょう。しかし私は、政策として「GDPを一定にすべきだ、ゼロ成長にすべきだ」と言っているわけではありません。一定にすべきは、物質とエネルギーのスループットなのです。

 GDPの中には、ストックを保つためのものもありますから、「GDP自体を一定に保つべき」という言い方ではないほうがいいでしょう。また、量的な拡大ではなく、質的な発展の可能性はあります。あなたが持っているiPadだって、いいものでしょう? こういったものは、ニーズを満たしたり、幸せをつくり出したりしますよね。それがスループットの成長を伴っていないなら、つまり、これほど良くないほかのものから資源を再配分することでつくり出されるとしたら、これは質的な向上となります。そのときに、より高い価値を生み出すためにGDPが増えることもあるでしょう。
 
 
GDPに関しては、プラス面とコスト面に分けて計算すべきだと考えています。現状では効用もコストもすべて足し合わせていますが、分けて計上し、限界費用と限界効用を比べるのが良いと思います。

―多くの人が、環境問題があるということはわかっていながら、「経済成長を止めなくても、技術が解決してくれるから」と言います。
 スループットに限度を設定して、技術の力でさらに生産性を上げ、同じスループットでたくさんのものをつくり出すことができるとしたら、純粋な進歩でしょう。
 技術には、このようにより効率を上げることで、資源やエネルギーの総量は増やさないで、よりよいものをより多くつくるというものもあります。同じ量を食べても得るものが多い、つまり消化が良いものです。しかし、単なる大食漢で、どんどん食べてしまうだけの技術もあります。スループットが増えてしまう技術は必要ありませんし、問題を解決しません。

 「技術があれば何とでもなる」と楽観的に考えている人たちが、スループットが増えてしまう技術を考えているのであれば、「それは違う」という話が必要ですし、同じ資源、同じスループットでより多くのもの、より多くの満足を生み出す技術の話をしているのであれば、「それは大切で必要なことだから、進めましょう」と答えます。

―失業や環境問題、人口増加など、さまざまな問題に対して、「経済成長なくしてどうやって解決するのだ」と言う人がいますが。
 最初のところからもう一度考えてみる必要があります。つまり、「経済成長は、私たちを豊かにしているのか?」ということです。豊かになっていれば、今挙げたような問題は解決しやすいでしょう。豊かになることは、私も賛成です。

 ほとんどの人は、「経済成長すれば、豊かになる」と思い込んでいます。しかし、本当にそうなのでしょうか? 成長が不経済なものになってしまえば、成長することは私たちを豊かにするのではなく、貧しくしてしまいます。貧しくなってしまえば、先ほどのような問題を解決することは、より難しくなるでしょう。
 ですから、考えるべきことは、「経済成長は私たちを豊かにしているのか、それとも貧しくしているのか」ということです。経済学者はこの問いに焦点を当て、より良い答えを導き出す必要があります。

―「脱成長」「縮小経済」という考え方もありますが、定常経済とはどう違うのですか?
 現在の人間経済は、生態系が持続可能に支えられる以上に大きくなっています。ですから、今の規模で定常化しても大きすぎます。ですから、まずは脱成長して規模を縮小し、持続可能なレベルになってから、定常化を図ることになります。

 そういった意味では、定常経済と相入れる考え方ですが、経済成長を永久に続けられないのと同じように、脱成長・経済縮小を永久に続けることも不可能です。いずれにせよ、最初に必要なステップは成長を止めることですが。

―日本語の「成長」には、人間の成長とか子どもの成長とか、良いイメージがあります。「経済成長」ではなく、「経済拡大」という言葉に変えたらどうかと提案しています。そうすれば、より中立的なイメージになりますから。
 それはいいアイデアですね! 英語でも同じです。Growthと言うとポジティブな意味合いを含みますから。

■定常経済から見たアベノミクス

―次に、日本の状況をどのように見ていますか? アベノミクスは、経済や社会の問題を解決するために、成長をさらに推し進めようという政策です。
 私は日本についてはあまり多くは知らないということをお断りしておきますが、その上で、「金融緩和で金利を下げ、民間投資を刺激しよう」という政策は、米国も同じことをやっており、それについての意見を述べることはできます。

 まず、それは良くない政策です。公共投資をある範囲で増やしていくのは、もしかしたら良い政策かもしれない。それに反対を唱えるつもりはありません。しかし、ただマネーサプライを増やし、金利を下げて民間投資を刺激しようというのは、良い考えではありません。

 われわれが生きているのは、どんどんと資源の制約が強まっている世界です。その中で、高いリターンの得られる投資を見つけることは簡単なことではありません。高いリターンが得られるのは、資源資本を搾取するときなのです。すでにそこに立っている木を伐採する、鉱山を開発する、井戸から水をくみ上げる、石油を採掘するなどは高いリターンが得られますが、今ではこういう機会はあまりなくなっています。もちろん、ハイテクなどで儲かるときもありますが、全体的に見れば、良いリターンをもたらす新しい投資の可能性は減ってきています。

 その状況で成長を推し進めようと、金利をゼロか低いものにしたら、どうなるでしょう? もちろん、銀行も個人も、コストがゼロに近いわけですから、お金を借りるでしょう。しかし、良いリターンのあるプロジェクトがないとしたら、借り出したお金はどこに向かうのか? 今すでにある資産に向かいます。家や土地、石油会社だったら既知の油田の埋蔵量を買う、などです。

 そうすると、お金は現在すでにある資産の値をつり上げる方向に向かっていきます。既存の資産の持ち主は儲かりますから、もっとお金を借りて、もっと上がるだろうと思うでしょう。言ってみればバブルです。多くのところでこういった事態が発生しています。金融緩和の政策は良くないと思う1つの理由です。

 もう1つ、この政策を好まないのは、これが部分準備銀行制度を通して機能するからです。このことを理解するのに長い時間がかかりましたが、今では、この部分準備銀行制度が良くない制度であるとわかっています。
 この制度は、民間銀行にゼロからお金をつくり出し、それを金利付きで貸し出す権利を与えているのです。いってみれば、お金の偽造です。普通ならお金を偽造すれば刑務所に入れられますが、民間銀行は、何もないところからお金をつくり出し、金利付きで貸し出すということをやっているのです。

 普通の人は、1ドル得るためには何かをしなくてはいけない。そして、その1ドルを使って、引き換えに何かを得ることができます。もし私がただでお金をつくることができて、それを使って何かを得ることができたとしたら?
 お金の循環に最初にお金を投入することを「シニョレージ」と言います。通貨を発行することで得る利益です。現在は、このシニョレージの権利を、民間銀行に与えているのです。おかしなことです。

 ですから、部分準備銀行制度から100%の準備金制度に変えていくべきです。すべての貨幣は政府が発行し、シニョレージは政府が得て、それを公共財に投資をしていく。そうすれば、お金は、現在のように私的な金利を持った負債ではなく、金利を持たない公共財として機能することになります。

 経済学者の中には、お金を道路に例える人もいます。お金も道路も公共財です。道路は誰でも使える公共財ですから、誰かが勝手に料金所を設置して、「この道路を通るならお金を払え」と言ったとしたら、それはゆすりでしょう?お金はこの道路と同じようなものなのに、銀行は道路料金所のように、「お金を得たかったら金利を払え」と言うのです。

―日本についてもう1つ。日本は出生率が低下し、移民も少ないので、人口減少が大きな社会問題になっています。一方で、定常経済に最も近い国、ということもできるかもしれないと思っています。
 日本が、定常経済に向かっていき、消費意欲が減っていけば、人々のエネルギーは、より対人関係に向けられるでしょう。そこに幸せを見いだし、友情や家族をより重視するようになる。そうすれば、これはまったくの憶測ですが、置き換え水準を超えるほど出生率が上がってくるかもしれません。

 移民の問題はもっと複雑です。今後大きな問題になってくるのは、大量の環境難民でしょう。
 米国には多くの不法移民がいます。勤勉ないい人たちですが、米国企業は何の権利も持たない安価な労働力としてこういった人たちを雇うことから、階級間の抗争や衝突が問題となりつつあります。これはとても複雑な問題です。

 人口減少の答えとして、大量の移民は答えにならないと思っています。それよりも大きな問題は年齢構成でしょう。人口増加が止まれば、自然の成り行きとして高齢化が進みます。定年退職の年齢を後ろ倒しにする、年金額を下げるなど、制度を変える必要があるでしょう。

―ある研究者によると、日本の江戸時代の250年間、経済成長率は年0.4%だったそうです。成長を前提としていない、いわゆる「定常経済」が存在していました。
 ヨーロッパでも同じように、産業革命以前は、規模がほとんど大きくならない経済がずっと続いていました。

―日本もヨーロッパも、そういった定常経済のような歴史があるわけですが.....。
 ええ、米国にはありません。米国は生まれたときから成長し続けている国です。島国でもありませんし、「進めば、まだ先が開ける」と、どんどんと成長をしてきました。ですから、米国人にとっては、成長というのは根っから染みついたものになっているのだと思います。

 経済成長を続けることが生物学的・物理学的に不可能になるはるか前に、定常経済が望ましいタイミングが来ます。それは、経済成長を続けることのコストが便益を上回るときであり、日本や米国をはじめとする先進国にはすでにそのタイミングが来ているのです。

 

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