エダヒロ・ライブラリー執筆・連載

2014年04月17日

オーストリアの原子力への「ノー」~なぜ脱原発が可能だったのか(出典:「世界」2014年4月号)(その1)

 

出典:岩波書店「世界」no.855 2014年4月号

著:ペーター・ウェイッシュ、ルパート・クリスチャン
訳:枝廣淳子


10人からの出発

 1960年代後半、オーストリア政府は原子力エネルギープログラムを始めることを決め、原子力発電所の設計会社が設立された。
 当時、私は、ウィーン近くにあるオーストリア原子力研究センターにある放射線保護研究所の小規模な生物学研究部門に勤めていた。放射性廃棄物と電離放射線の生物学的な害に関する多くの問題が解決されていないことを知っていたため、原子力発電所プロジェクトに公然と反対する声を上げ、小さな反原発"運動"に立ち上げから関わることとなった。最初の集会を覚えている。1971年、ツヴェンテンドルフ原発の建設現場へ集ったのだ。参加者は10人ちょっとだった。

 1972年、首都ウィーンから20マイルほどドナウ川をさかのぼったツヴェンテンドルフで、ドイツのクラフトヴェルク・ユニオン(AEGとシーメンス)が、最初の原子力発電所の建設を始めた。700メガワットの発電容量を持つ加水式原子炉として設計され、オーストリアの発電量の約10%を発電することが期待されていた。

 1974年初めには、オーストリアに二つめの原子力発電所を建設するための会社が設立された。60年代末から存在していた反原発運動は、規模は小さいものの着実に広がりつつあり、この二つめの原子力発電所に集中的に取り組むこととなった。

 主要な政党-与党である社会民主党、そして保守的な国民党(当時の主要な野党)は、一致して原子力推進の立場であった。原子力発電に関して批判的な立場を取ったのは唯一、
小さな野党である自由党だけであった。
 政府の1975年エネルギー計画では、「1985年までに、三つの原子力発電所で計3000メガワットの発電容量」との見通しが示されていた。

 1974年冬、二つめの原子力発電所の着工計画が延期された。理由の一つは電力需要の伸びが鈍化したためであり、もう一つの理由はプロジェクトに対する地元の大反対である。
 1976年秋、原子力計画を正当化し、反対を和らげようと、政府は原子力に関する情報キャンペーンを始めた。しかしながら、その結果は正反対となった。いくつかの新聞がはじめて、原子力に批判的な記事を特集し、反原発運動は大いに勢いづいた。前に考えられていたのとは逆に、オーストリアは核廃棄物の問題を、他国への輸出によっては"解決"で
きないことがわかった。核廃棄物の貯蔵問題は、候補地として名が上がった地域で、地元の大反対を引き起こした。新聞が原子力の問題を大きく取り上げ始めた。ほとんど完成していたツヴェンテンドルフ原子力発電所の始動について、「全くのたわけごと」とレッテルを張られることなく、公の場でまじめに疑問を呈することが初めて可能となったのである。

原子力発電に反対する理由は数多くあった。最も重要であろうものは:
・通常運転の条件下であっても、放射線の放出に関連する人体の健康への害
・原子炉容器の解決されていない技術的な問題
・核廃棄物の管理と処分に関する、未解決かつ解決しがたい問題
・いわゆる"平和的な原子力エネルギー"と、軍事原子力業界の間のつながり
「原子力産業(とプルトニウムの生産)の拡大に対するオーストリアでの自分たちの反対運動は、核兵器の水平拡散に対する闘いにも寄与する」ことを私たちは認識していた。
・非常時計画が不十分であること、原子力の破局的な状況があった場合に、いくつかの都市を避難させる必要があり、それは不可能であるということ。このような破局的な状況は、当時すでにオーストリアに実際に存在する危険であると考えられていた。

 多くの活動が行われた。たとえば1977年4月には、オーストリアのサルツブルクで、さまざまな国のNGOが組織した「原子力のない将来のための国際会議」が開催された(この会議の宣言は現在でも非常に重要なものである)。ちなみに、日本の原水禁の代表団も参加し、ヅヴェンテンドルフ発電所に対するわれわれの反対キャンペーンを支持してくれた。

 1977年秋、ツヴェンテンドルフやいくつかのオーストリアの都市で、大規模なデモが行われた。同年12月、原発反対者たちは、秘密裏でのツヴェンテンドルフ原子炉への燃料輸入計画を暴露し、その輸送を阻む行動を宣言した。反対者とのトラブルを避けるために、燃料の輸送は1978年初めへと延期され、発電所まで燃料要素を運ぶために、軍のヘリコプターが使われた。発電所の現場には審察のバリケードが築かれていた。ここで言及しておきたいが、オーストリアにおける反原発のデモや活動はすべて100%非暴力のものである。

 原子力全般、特に最初の原子力発電所を始動することは、煮えたぎる政治問題となった。政府は、原子力に関する意思決定を議会にゆだねた。政府の作成した原子力エネルギーに関する報告書が議会に提出された。この報告書は、政府の情報キャンペーンで蓄積された、目を見張るほど大量の資料や情報を一器約したものとして提示された。しかし、この要約は極端に原発寄りで偏ったものだった。そして、政府は自分たちが行った情報キャンペーンで出てきた多くの重要な事実をまったく無視していることが明らかになった。原発反対派は初期のころ、「政府の情報キャンペーンは、国民を欺くために計画されたものだ」と非難していたが、それが正しかったことがわかったのである。

 その後行われた議会での公聴会で、反原発派は、ツヴェンテンドルフの現場と発電所の建設において、安全性の観点で疑わしいことがいくつかあること、また、重要な研究が欠如していること(放射線生態学に関する専門家がいないなど)を明らかにした。

 有権者の中での反原発派は当初は少数派だったが、この時までには大きく増え、ツヴェンテンドルフ発電所の稼働開始の共犯者と見なされうる政党はどの政党であっても総選挙で敗北するほどの規模となった。クライスキー首相率いる社会民主党は、あえてこのタイミングで意思決定を議会の前に持ち込もうとはしなかった。国民党からの支持が確かではなく、最西部のフォアアルベルク州選出の社会民主党議員たちも自党の原子力推進政策を支持する立場にはなかったからである。フォアアルベルク州の住民は、隣国スイスのリュッティ・プロジェクトに対して必死の闘いを挑み、ちょうど成功を収めたところだった。スイスは、オーストリアとの国境のすぐ近くに原子力発電所を建設する計画だったのだ。フォアアルベルクの人々は、圧倒的に反原発派であり、オーストリアの原子力発電所が稼働を始めるとスイスに対する自分たちの交渉の立場を弱めかねないことを恐れたのである。

 何人もの著名な海外の科学者が政府に招聘され、原子力エネルギーに関する自説を述べた。そのなかには、「水素爆弾の父」という、名声も悪名も高いエドワード・テラー博士もいた。しかし、ウィーン大学での博士の講義は、学生の反対が強く、キャンセルせざるを得なかった。


僅差だった原発国民投票

 1978年6月、「原子力問題は国民投票にはまったく不適切なものである」と言っていた社会民主党のクライスキー首相が、「明らかな多数派が原子力に賛成であることを確信している」と力説し、2月5日に国民投票を行うと発表した。

 原子力推進勢力は、莫大な支援を得て闘いに入った.国営の電力会社だけでも、納税者の税金3000万オーストリアシリング(200万米ドル)を投入し、業界団体や労働組合の傘下にある団体、そして社会民主党がさらに数千万もの資金を注ぎ込んだ。反原発グループが使えるものといったら、自分の貯金とその熱心な献身だけだったが、その行動はとても効果的だった。目を見張るほど多種多様なグループが仲間に加わった。「原子力に反対する母の会」「原子力に反対する教師の会」「原子力に反対する物理学者の会」、生物学者、地質学者、医者、生徒、教会信者、アーティスト、「原子力に反対する労働組合員の会」、オーストリア学生連盟などである。科学者と市民グループの間の協力体制は素晴らしいものだった。

 国民投票の数週間前の時点で、世論調査ではなお、原子力発電所に賛成する人々がかなりの多数派であった(着実に減りつつあったが)。一方、原子力を批判する人々は、さらなる情報の暴露を行った。ツヴェンテンドルフ原子力発電所の圧力容器の溶接の接ぎ目が高い張力のかかっている場所に置かれており、従って、オーストリアの安全基準に違反していることを明らかにしたのだ。また、初期のころ、専門家が「水地質学的な理由で、ツヴェンテンドルフは原子力発電所の建設地として最もふさわしくない場所である」と述べていた(後にもみ消された)ことも発覚した。

 原子力問題は、主要な新聞で大々的に取り上げられ、いくつかの分野の専門家があらゆる角度から最も重要な問題について議論した。

 主要な労働組合員たちは、職員の時間を何千時間分も投入して、国民投票で賛成票を投じるよう、産業界の労働者を説得する作業を始めた。クライスキー首相も、同じ目的に向けて、自らのあらゆる威信を用いた。

 原発反対が過半数を超えるという希望はほとんどなかった。しかし、考えられないことが起こった。2月5日の国民投票の結果は、原子力発電所に反対する票が、僅差で過半数を超えたのである。有権者の3分の2近くが投票に行き、326万人のうち、49.5%が原子力発電に賛成、50.5%が反対の票を投じた。反原発運動の熱意と献身が実を結んだのである。プロパガンダのメカニズムとエスタブリッシュメントの行使した圧力は敗れた。このこと自体、オーストリアの戦後史のなかでも特記すべき出来事である。

 2万票足らずの僅差で過半数を超えたことで、オーストリアにおける原子力エネルギーは拒否された。これは極めて重要な結果である。活動家たちに「自分たちの活動と献身は価値があるものだった、一つ一つの会合や議論、パンフレットの一枚一枚が、この勝利の決定打となったのだ」ということを示した。成功できるかという展望がかんばしくないときですら、闘うことが必須であり、「効果がないものはない」ということを、われわれは学んだのだった。

 国民投票の結果を分析したところ、反原子力が過半数を超えたのは、より若い世代、特に若い女性と、平均以上の教育レベルの人々の投票があったためであることがわかった。
前述したように、最西部のフォアアルベルク州ではスイスの原子力発電所に対する反対運動が成功を収めていたが、この地域では圧倒的に反原発が多数派であった。オーストリアの放射性廃棄物の処分地候補とされていたニーダエスタライヒ州でも、大きく過半数を超える人々(89%)が発電所に反対票を投じた。

 発電所の周辺地域(ツルナーフェルト)やツヴェンテンドルフ村自体でも、驚くほど多くの反対票が投じられた。ツヴェンテンドルフ村は、住民の多くが発電所で働いており、長年にわたる原子力推進プロパガンダの的であったため、原子力賛成派の砦であった。
 どれほどお金をかけたものであろうと、原子力推進のプロパガンダは、地域的な支配力を持っていただけだった。そこについては、反原子力活動家たちは、人手と資金の欠如により、無視せざるを得なかった。もし、公的な情報における機会が対等であったとしたら、結果は、原子力をよりいっそう高らかに拒絶することになったであろうことは疑いがない。

 (社会民主党)政府と政党は速やかに反応した。国民投票から数週間後の1978年11月15日、オーストリア議会は全会一致で、「オーストリアにおいては電力生産のために、原子力エネルギーを用いることを禁ずる」という法律を通過させたのだ。

 この民主的な意思決定により、オーストリアは、「原子力発電を持っていない最後の先進国の一つ」から、「原子力発電を持たない最初の先進国」へと転身した。
国民投票から数カ月もたたないうちに、米国ハリスバーグで、スリーマイル島原発事故が起こった。オーストリアの多くの人々は、「原子力なし」というのは賢明な意思決定だっ
たことを認識した。

 完成してからこのかた、ツヴェンテンドルフ原子力発電所は使われないままになっている。1977年から、私は繰り返し、これを"時代遅れの技術博物館"にしたらよいと提案
してきた。良いプロジェクトではないかと今でも思っている。
オーストリアの国民投票の結果は、国際的な視点から見ると取るに足らないものに見えるかもしれないが、それでも、われわれの産雲霧位会が乗り出した"自殺の進路"を正そうという闘いの中での一縷の希望になっている。

(その2へつづくー)

 

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