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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2020年03月02日

新型コロナウィルスの状況に考えること(2020.03.020)

大切なこと
 

新型コロナウィルスが各地に様々な影響を及ぼしています。感染された方が一刻も早く回復されることを心からお祈りし、一刻も早く事態が収束することを願っています。

首相が連日記者会見を行って経済界や国民に行動を呼びかけ、知事が緊急事態を宣言し、各省庁や日銀が呼応して迅速に対策を取り始め、事業者も自ら迅速な対応を進めています。

生活者も、街に出ればマスクをしている人がほとんどというように、またマスクの品切れや最近ではトイレットペーパーまで品切れになるほど、その行動や購買行動をふだんとは大きく変えています。これも全て、「新型肺炎」という差し迫った危機が目の前にあるからです。

そんな世の中の動きを見ていると、私が翻訳したアラン・アトキソンの「カサンドラのジレンマ」という本にある、以下の下りを思い出します。

『カサンドラのジレンマ―地球の危機、希望の歌―』
(著者:アラン・アトキソン 監訳者:枝廣淳子 PHP研究所)

~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~


「イン・コンテクスト」という雑誌で気候変動の特集号を編集していたときのことだ。編集委員の一人、プレスコットと議論になってしまった。プレスコットは、自然が発する信号に対して、手遅れになる前に人類が手を打つことなど不可能であり、しょせん人類は気候変動による大いなる禍いで絶滅する運命にあると確信していた。

彼の持論はこうだ。問題は人類の「闘争・迷走」神経系統にある。私たちの神経系統は、洞窟の入り口にクマが来た!というような差し迫った危険に反応するようにできている。ところが、大気中の二酸化炭素量のゆっくりとした目に見えない変化は、クマとちがって人を駆り立てる緊急性を持ち合わせていない。少なくとも脳幹から見ればそうだ。脳に反応を起こさせるには、気候システムはとにかく複雑すぎるし、気候に関する情報も抽象的すぎる。


~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~


このあと、アランは「じゃあ、ダウ平均株価指数はどうなんだ? そのシステムは複雑きわまりないし、数値自体もずいぶん抽象的なものだが、私たちは、あたかも洞窟の入り口に立つクマであるかのように、その数字の下落に反応するよう訓練されてきた。このような指標が大きく下がると、多くの人々が計り知れない恐怖を感じ、迅速な防衛措置をとるよう駆り立てられるじゃないか」と反論し、「指標」の重要性へと話が移っていくのですが、それはさておき。

ここで書かれているように、私たち人類は、たとえ危機があっても、それがわかっていても、それが将来に顕在化するであろう危機で、目の前のクマのように差し迫っていない危機である場合は、なかなか迅速に対応できないのだよなあ、と思います。

私たち人類は、新型コロナウィルスといった差し迫った目の前の危機と同じように、気候変動のように長期的にじわじわと影響を及ぼしてくる大きな危機に対しても、迅速な行動が取れるよう、神経系統の仕組みを進化させることができるのでしょうか? 進化を待つことができないとしたら、その足りないところを補足するために、何が必要なのでしょうか?

また、今回の出来事は、私たちがどれほど中国をはじめとする国外・域外に依存しているかを痛感させるものとなりました。部品の供給だけではなく、労働力、市場としても、中国がいかに日本経済や地域の経済、日々の暮らしを支えていたかがわかります。

今回のような出来事は、外部からの強い力がかかってもポキッと折れることなく、しなやかに立ち直れる「レジリエンス」がどれぐらいあるのか?を問うているともいえるでしょう。

今回の事態が収束したのち、「喉元過ぎれば......」と、またこれまでと同じ「平時には問題ないが、何かあれば脆弱な状態」に戻るのではなく、依存度合いを客観的に、長期的なリスクの視点からも見直し、リスクに手を打ったうえで依存し続けるところと、今回を機会に、自分たちに取り戻す(リ・ローカリゼーション)ところとを、戦略的に考え分けていく必要があるでしょう。

2011年の東日本大震災は、産業界や企業に、「部品供給元を絞り込み、在庫をできるだけ持たずに物流や製造を行うことは、平時にはコスト削減・効率アップというプラスになるものの、何かあったときには動きの取れない脆弱な状況に陥ってしまう」ことを突きつけました。

たしかにその後、日本の多くの企業は、調達先を多角化したり、在庫を持つようになったのです。しかし、数年後に調べてみると、まさに「喉元過ぎれば」でした。そういった多様性や冗長性の多くが削られていたのです。平時には、コスト削減・効率アップの圧力の方が強くなることがわかります。

今回も、事態が収束した後に、「これまで通り」にそのまま戻るか、この教訓を"喉元過ぎても"忘れずに、気合いやだれかに頼るのではなく、「仕組み」を変えることで、今後の同様のリスクに対応できる力を高めておくかーーこれはそれぞれの組織や、私たちひとりひとりの選択です。メディアの報道を見ても世の中の動きを見ていても、つい浮き足立ってしまいがちな今日この頃ですが、こういう状況でこそ、本当に大事なことをしっかり考えたいと思います。

あわせて、このような平時とは異なる事態になると、平時には当然で表面に浮上してこない私たちの「メンタルモデル」(さまざまな思い込みや無意識の前提)が浮かび上がってきます。

例えば、今日から一斉休校が始まりましたが、「休校で困る人」についてメディアで取り上げる時に出てくるのはほとんどの場合「女性」だ、という指摘があります。ここにはどのような私たちの「メンタルモデル」があるのでしょう? 「子供の世話をするのは母親だ」という思い込みや社会通念が、今なお色濃くあるということでしょうか。

また、休校という「問題」を、「働く人が働きにくくなって困る」という文脈だけで捉える向きもあります。ここには、「保育は、親の労働時間を生み出すためのもの」というメンタルモデルが潜んでいないでしょうか? 

保育園や小学校は、もちろん、そこに子どもたちが行っている間、親は仕事ができるという側面も持っています。しかし、何よりも、子供たちの成長のための場のはずです。

今回でいえば、親が働き続けられるよう、保育の手はずも重要ですが、この時期の突然の休校によって、子供たちの成長や学びができるだけ損なわれないようにする、できればふだんでは得られないような学びにつなげるーーそんな取り組みも忘れてはならないと思います。

事態が迅速に収束することを強く願いつつ、こういう時だからこそ、本当に大事なこと、ふだんは気がつかないが重要なことをしっかり見つめ、考え、「これまでやってこなかった新しいあり方・やり方」を試し、仕組みを変えることで、よりよい未来につなげる一歩にしていけたら、と願っています。

 

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