ホーム > 環境メールニュース > 1800本目の雑談〜「ものを見つめること」(2010.05.27)

エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2010年05月27日

1800本目の雑談〜「ものを見つめること」(2010.05.27)

 

「気がつけば、1700号です」というメールニュースを出したのが、昨年10月5日でした。

それから半年ちょっとで、「気がつけば、1800号」です。(^^;

いつの頃か、メールニュースに出会って読んでくださるようになったみなさま、本当にありがとうございます〜! <(_ _)>

配信を開始した1999年には(2ヶ月しかないのに)いきなり49本配信し、そのころは数十人だった読者にびっくりされました。(現在は1万人ほどの方にお送りしています)

2000年:311本(ほぼ毎日書いてました〜。^^;)
2001年:257本
2002年:180本
2003年:146本
2004年:114本
2005年:104本
2006年:106本
2007年:151本
2008年:158本
2009年:160本
2010年: 64本(5月27日現在)

こうして並べてみると、2005年頃に底を打って、何だかゆるやかに増加中ですねぇ。これからどうなるんでしょうねぇ。(^^;

この号は、1800本目の息抜き・雑談ですー。

この間、天袋の整理をしていたら、高校1年生の時に書いた作文が出てきました。高校の時は、とにかく部活に明け暮れていたことしか憶えていないのですが、読んでみると、何だか今やっていることや考えていること、大事にしていることを先取り?していたのかもー、と昔の知らない自分に出会ったみたいな気がしました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ものを見つめること                           1年G組 塚本淳子

 私は、赤毛のアンが大好きだ。アンは、本当に上手に物に名をつける。たとえば、バリー家の池には、“輝く湖水”と、庭のりんごの木には、“雪の女王”というように。

みんなにとって、ただの池としか思えないような池にも、りんごの実をとるための木でしかなかったりんごの木にも、アンはその中に、生命とかけがえのなさ――バリーさんの池だけが、アンにとっては輝く湖水なのだ――を認め、自ら名付けたその物たちを愛した。

物に名を与え、物と親密感をもつということは、その中にとけこみ、それをいつくしむこと、かわいがることなのだ。

 私が、仙台郊外に住んでいたころ、家に近くに、小山があった。木はまばらで白い石灰岩がおおっていた。幼稚園から小学生にかけて、よくその山で遊んだのだが、ある時、名がないのは不便だ、と私は「はげ山」と命名した。

それからもう十年はたっているのに、仙台の友からの便りに、『はげ山も今はもう緑におおわれ……。』とあるのを見て、私、この私があの山に名づけた、あの山の存在を明らかにしたのだ、と思って、木々のまばらなはげ山を懐しく思い出すのである。

 芭蕉の句に「山路来てなにやらゆかしすみれ草」というのがある。芭蕉は、山路をきてふっと足元のすみれ草をみつけたのだろう。そしてゆかしいと思った。

けれども、彼は、ゆかしいからといって、すみれ草を摘んで自分のものにしたろうか。彼は、静かにみつめただけだったと思う。これこそ、本当のすみれ草との出会い、すみれ草の存在をみつめ、それをいつくしむことではないだろうか。

 美しいといって他人の花を持ち去り、めずらしいといって、よその盆栽を盗む人がいるときく。その花を、木を盗み、自分のものとしたからといって、それが何になろう。

美しい、めずらしい、と心に感じたなら、その前に、じっとすわりこみ、見つめればよいではないか。そうやって見つけた花の本当の姿というのは、一生忘れないものだ。盗んだ花なら、枯れてしまえばおわりではないか。

 私たちは、ものをみるとき、“名”という壁の向こうにある、そのものの、真の姿をみなければならないのだ。

 ものの真の姿を見るというのは、初めはむつかしいが、慣れると楽しくなる。ものでしかないものが、時によって表情が違うのだ。私たちが深いつき合いを通して、その人の本当の人間性を知るように、深い理解と愛をもって「もの」を見なければならないのだ。それがものへの、そして自分内部への旅立ちとなるからである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「名」と「もの」の関係には、なぜか惹かれるものがあったようで、大学では何の授業だったか忘れましたが、フランスの歴史家アリエスの『子供の誕生』を読んで、とてもびっくりしたことを今でもよく憶えています。

『子供の誕生』(フィリップ・アリエス著)

アリエスは、中世から近代までは、ヨーロッパには「子ども」という概念がなかったことをさまざまな歴史的な資料を通じて示しました。当時、子どもは「年齢の低い大人」として扱われていたそうです。

それが、子どもという概念が生まれ、子どもに「子ども」という名が付いてはじめて、大人とは違う子どもが認識されるようになったのでした。面白いですね〜!

「名」がそのものを生み出すことがあると同時に、「名」がそのものの本質との出会いをじゃますることもよくあります。

ある「名」を聞いたとたんに、「それってこういうもの」という自分自身のメンタルモデル(意識・無意識の前提、思い込み)で理解したつもりになってしまうのですね。

今もきっと同じような問題意識を持っているような気がします。「排出量取引」にしても、流行りの「スマートグリッド」にしても、「そう呼ばれているそれってなあに? その本質は何なのだろう?」と。

というわけで、メールニュースは今後も続いていくわけですが(^^;高校時代に話を戻すと、1年の時はG組だった私は、2・3年はC組でした。当時、隣のB組にいた1人が、今をときめく?脳科学者の茂木健一郎さんです。

高校の時は(8クラスもあったので)お互いに存在を知らなかったのですが(高校のときの茂木さんはとても無口だったそうです。^^;)、2年ほどまえ、仕事でご一緒する機会をいただいて、お会いしました。そのときのようすとツーショットは、茂木さんのブログにも載っています。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/10/post_b151.html

この8月に発売予定の『文藝春秋』の「同級生交歓」は、この茂木健一郎さんの同級生が集まる会になるとのことで、お声がかかりました。数人の同級生が集まるとのこと、とっても楽しみにしているところですー。(^^;

あ、そういえば(言われる前に言いますが)、高校生の頃の私は、ながーい作文を次々と書いて、読む人を困らせるようなことはしていなかったんですよ。(^^;

 

このページの先頭へ

このページの先頭へ