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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2010年03月20日

竹村真一さん「十年後の日本をどう創るか?」(2010.03.20)

新しいあり方へ
 

Voice誌の新年号に、竹村真一さんが寄稿された文を、ぜひとお願いして、メールニュースでもご紹介します。

竹村さんとは「100万人のキャンドルナイト」の幹事として、またエコッツェリアでの展開や「地球大学」など、あちこちでごいっしょする機会があり、お互い、同じようなことを大事にしながら、それぞれのアプローチで活動しているなあ、と思っています。

「今ほど生きがいのあるわくわくする時代はないよね!」とよく言い合っている竹村さんの「バックキャスティング型ビジョン」、ぜひどうぞ!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「十年後の日本をどう創るか?」

ワクワクするような未来が語られなくなって久しい。かつての新幹線や未来都市など、夢を持てる話題が何もなく、多くの若者はどうせ地球はもうおしまいなんだからと無気力になっている。

だが、そうだろうか?私はこんなに新しい未来を展望できる、未来に投資しがいのある、ワクワクする時代はないと思っている。

たとえば太陽の恵みだけで石油も原子力もいらない、「エネルギー代はほとんどタダ」の時代が実現すると二〇年前、いや一〇年前ですら誰が想像できただろうか?でも、いまや世界の風力発電容量は約一・五億kW、ここ数年の勢いでは五年以内に世界全体の原発(約四億kW)に匹敵する規模になろうとしており、ドイツや北欧諸国は二〇年以内に電力の半分近くを自然エネルギーで賄う構想だ。

パレスチナやイラクが紛争地域となったのは、二〇世紀初頭に中東の油田が発見されたことがきっかけだが、もう私たちは「石油をめぐって戦争をしなくてもよい」地球社会をデザインしうる地点に立っている。二〇世紀の石油文明という、ある一時代の都合で引き起こされた戦争、創りだされた民族問題なら、まったく新しい時代の文脈のなかでリセットすることも可能なはずだ。

そう、私たちは半世紀前の鉄腕アトムの時代と同じ強度で、「希望の地球」を語り、そのデザインに参加できる場所に生きている。

さらに私たちはこの二〇年ほどの間に、宇宙のなかでの地球の「有難さ」を知った。宇宙の探査が急速に進んだ結果、地球のような星(液体の水と多様な生命に満ち溢れた「水球」)が宇宙のなかでは極めて稀であること、宇宙人や地球外生命(ET)などはそうそう居るものではなく、私たち自身がきわめて稀な「宇宙人」であることを理解した。花が咲き鳥が舞い、人間という特異な脳が七〇億も言語というテレパシーで交信しあっている、この地球のありふれた風景が宇宙的にみてどれほど「破格」なことであるか。私たちは宇宙のなかでの地球と自己の存在の意味を知った初めての世代であり、宇宙船地球号がそれ自体どれほど「希望」に満ちた、祝福された星であるかを語れる世代なのだ。

もちろん日々の熾烈なビジネスや政治の渦中では、こんな戯言は無意味に感じられるかもしれない。だが、子供たちや将来に希望を抱けない若い世代にとってはどうだろう?私たちの世代だからこそ語れるこうした「希望」を語らず、小学校や幼稚園から地球の危機と人類の愚かさだけを教えるとしたら、そして現世代に生きる困難ゆえに、未来世代が持ちうるはずの希望(たとえば石油をめぐって争う必要のない時代を創りうる可能性)を封印しているとすれば、それは「子ども」という最大の投資対象に大人としてまっとうな責任を果たしているとはいえないのではないか?

人類は進歩したからではなく、その技術文明が「未熟」すぎたがゆえに地球環境を破壊してきた。だが、その自らの未熟さと宇宙のなかでの地球の尊さを知り、これまでとは違うモードで地球と共進化しうるくらいには成長しつつある。二〇一〇年を、こうした「希望の地球」を語り、デザインし始める元年としたい。 

地球と日本の未来にむけて、鳩山政権の“マイナス25%”宣言は、単なる排出削減にとどまらず、化石燃料依存の二〇世紀型国家・社会デザインからの脱却を加速するものとして評価できる。国民の負担増や産業の競争力低下を危ぶむ声もあるが、逆にこれをやらなかった場合のコストを考えてみよう。

自然エネルギーへの世界の新規投資額は毎年一五兆円規模であり、発電容量では世界全体の原発を代替しうる規模になろうとしている。こうして世界が太陽の恵みで“エネルギー代はタダ”の時代に怒涛のように移行してゆくなか、日本だけが現在でも毎年二〇数兆円かけて買っている石油をピークオイル後も買い続けるのだろうか?次世代にそんな危うい未来を託すのだろうか?

また、低炭素化に最も逆行すると思われたアメリカや中国すら急速に「グリーン大国」へと変貌しつつあるなか、下手をすると日本の産業は世界から置いてきぼりになり、低炭素化した世界の市場から排除されてゆく可能性すらある。逆に今なら、太陽電池や電気自動車、蓄電池など脱石油社会構築への技術的なアドバンテージを活かして、国旗(日の丸)が象徴する通りに「太陽経済」で世界に貢献する国へと脱皮しうる可能性がある。そう考えると、これはほかに道のない国家安全保障上の選択だろう。

とはいえ単なるCO2の削減目標と世界の後追いのようなグリーン産業戦略だけでは、“国家一〇〇年の計”としては飛距離が足りない。ここは一つ目線を上げて、地球文明のデザイン・コンセプトを日本として明確に打ちだす時ではないか?私はそれを「希望の地球」をプロデュースする地球工学と名づけたい。

「工」という字は、二本の水平の線で表現される「天」と「地」を結ぶ「人」の営み(垂直線)を表すという。人間は自然を破壊する存在にもなれれば、自然をコーディネートし、より高次元の自然へと導く存在にもなりうる。たとえば日本の伝統的な治水や水田の技術は、人間が自然に手を加えることで、洪水を防ぎ、貯水により地域の微気象を調律し、元の手つかずの自然よりも生物多様性の豊かな自然をデザインしてきた。人「工」はそこでは自然に対立するものではなく、「自然の一器官」として呼吸するものとなる。

こうした西欧型の自然支配でも自然保護でもない第三の人類と地球環境の関係の作法を、現代の技術やライフスタイルを踏まえた新たな文明コンセプトとして提示し、人類と地球の共進化の可能性をプロデュースしてゆく。

たとえば二〇世紀の都市の建物や自動車は、エネルギーを消費するだけで(あるいは都市をムダな廃熱で暖めるだけで)、「自然の一器官」としては何も創造的な役割を果たしていない。だが、都市のビルや家屋の屋根と窓がすべて太陽のエネルギーを捕獲する皮膜として進化すれば、都市は光合成で太陽エネルギーを捕獲する森や水田と同様に、地球のエネルギー循環を創造的に担う一器官となる。(いうまでもなくソーラーパネルや、自家発電の電力を貯める蓄電池としても期待される電気自動車は、日本が世界に先駆けて実用化してきた「太陽経済」の細胞だ。)

私たちは真に惑星的(Planetary)な視点で新たな文明を構築する最初の世代である。たとえば惑星的な観点からいえば、そもそもこの地球上に“エネルギー問題は存在しない”。現在、人類は石油換算で年間一〇〇億トンものエネルギーを消費しており、エネルギー危機と成長の限界が叫ばれるが、実は太陽から地球に供給されるエネルギーはその人類需要の1万倍以上(石油換算で約一三〇兆トン分)。つまり太陽エネルギーの一万分の一でも捕獲できれば、人類にエネルギー危機など存在せず、石油をめぐる資源戦争や原発のリスクからも自由な世界が構築可能なのだ。そして、それが決して夢物語に終わらない時代がすでに始まっている。

もっとも、こうした「太陽経済」は発電部門だけでは十分に機能しえない。電気は貯めにくく、長距離輸送にも向かない、そして自然エネルギーは天候や地域条件に左右されやすい。実はこうした問題をクリアし、トータルな太陽エネルギー社会をデザインしてゆく基幹技術においてこそ、日本は最も地球に貢献できる。蓄電池や電気自動車、スマートグリッドを支える技術などは言うまでもないが、さらに太陽エネルギーの大量・長距離輸送を可能にする技術も実現されつつある。

たとえば水素は再生可能エネルギーの貯蔵・輸送媒体(いわば“エネルギーの通貨”)として注目されるが、その大量・長距離輸送の基盤技術として、千代田化工建設が先駆的に開発する「水素サプライチェーン構想」は画期的だ。当面はまず天然ガスや石炭などの化石燃料から、中東などの供給国側で水素を大量生産。化石燃料は要するに炭素と水素の結合物だから、水素分離の過程で炭素を回収(CCS)しながら“クリーンエネルギー化”し、水素は(ここが画期的なのだが)ガソリンの一成分であるトルエンに溶け込ませて、いわば“水素入りのガソリン”として既存の石油やガソリンの流通インフラをそのまま使って輸送・供給する。従来の水素技術のように超高圧・低温にしなくてよいので安全でコストも安く、炭酸ガスの削減分に相当する水素を利用することで、個別の設備ごとに炭酸ガスを回収・処分する必要がなくなることにもなる。

自然エネルギーで人類のエネルギー需要の大半が賄えるようになるのは早くても二〇年先と考えると、しばらくは依存し続けねばならない化石燃料を井戸元でクリーン化しつつ、まずは化石燃料需要の急増が予想される中国・インドなどの“炭素メタボ社会”をソフトランディングさせる。同時にこのシステムは遠隔地で電力輸送が困難なパタゴニアの風力、サハラ砂漠の太陽光など、遠隔地の大量安価な自然エネルギーをグローバルに流通させるインフラにもそのままなるから、(特に現在は日本のRPS法の縛りのなかで捨てられがちな)風力などの自然エネルギーの有効利用、ひいては自然エネルギーの“カンブリア大爆発”を誘発する引き金としても機能するはずだ。

さらに送電ロスのない「超伝導ネットワーク」で、太陽エネルギーの地球スケールの相互融通を図ろうという構想もある。たとえば世界の砂漠の二〜三%に太陽電池や集光型太陽熱発電装置で覆えば世界のエネルギー需要が賄えると試算されているが、ゴビ砂漠にそうした大規模太陽光発電プラントを敷設し、それを超伝導ネットワークで東アジア全域に流通させようという「ジェネシス計画」が日本人の技術者グループによって構想されている。

自然エネルギーは日照や風の強さなど自然条件に左右されるが、どこかでは必ず太陽は照り、風は吹いているのだから、広域でのネットワーク(相互融通)により、その地域的な不確実性を相殺することが可能なはずだ。太陽エネルギーの本質から考えると、必然的に国や地域単位でなく、世界を一体のものとして地球スケールで考えて、互いに足りない場所、足りない時間に補完・融通し合えばよいという発想になるわけだ。こうした地球規模の相互融通が実現すれば、自転によって昼と夜(発電可能地域と需要地域)が交代してゆく地球の生理に同調したかたちで、発電した電気を“経度から経度へと”(谷川俊太郎「朝のリレー」)送りあうことも可能になるだろう。中東など特定地域に局在した資源を争う地政学とはまったく異なる、「惑星的」(Planetary)な構想力が試される。

ジェネシス計画の超伝導送電のパイオニアである北澤宏一氏(科学技術振興機構理事長)は、さらに砂漠を太陽発電地帯として活かすだけでなく、ソーラーパネル(半導体)の原料となるシリコンを大量に含むサハラ砂漠の砂を使って現地で太陽電池産業を育成し、アフリカの経済的自立を促しつつ、不毛の砂漠サハラがエネルギー供給国となるシナリオを提案する。

こうしてサハラは“二一世紀の油田”となる。しかも字義通りの油田と違い、資源戦争の引き金となることもない。油田やダイアモンドに頼らずとも、アフリカが経済的に自立・発展する道はある。こうした資源外交ならぬ「太陽外交」が、新たな日本のアイデンティティ、日本の環境ソフトパワーの基盤となる。

こんな地球「工」学で世界に貢献できる国に日本はなりうるのだ。そういう日本を、私たち同様、世界も見たいはずだ。こんなワクワクするような時代を迎える前に、気候変動で自滅するわけにはいかない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日々の活動や取り組みの中では、大変なことがいっぱいあると思います。イヤになったり、投げ出したくなったり、何のためにこんな苦労をしているんだろう、なんて思うこともきっといっぱいある。

でもその向こうにある世界を思い浮かべて。きっと、

「今のまま」< 苦労+「めざす世界」

「わくわくの時代をいっしょに生きている」こと、うれしいですねー。

 

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