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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2009年03月05日

JFSニュースレターより「日本の江戸時代は循環型社会だった(後編)」 とセミナーのご案内(2009.03.04)

大切なこと
 

熊本県への出張からさきほど戻ってきました。

熊本市では、NGOが主催した地元NGO向けの2日間の研修で、「システム思考を活用して効果的に社会を変える」などを担当しました。システム思考って、企業や個人の役にも立つけど、市民団体やNGOが効果的に社会を変えるためにもとても役に立ちます。こういうNGO向けの研修の機会がぜひ増えていくといいなあ!と思っています。

そのあと、生まれて初めて水俣におじゃまし、2日半の行程で資料館や地元学の実践などの見学の他、水俣再生のキーパーソンの吉井元市長、吉本さん、杉本栄子さんの息子で語り部の肇さん、胎児性患者さんたちのお話をじっくり聞くことができました。いろいろな学びと気づきがあり、自分のやってきたこと・やっていることについても考え込む機会になりました(たまにはそういう機会もよいものですよね!)。

吉井元市長には、10年近く前に東京でお話を聞いたことがあります。

[ No.17] (1999.11.20)で「環境を考える経済人の会21シェルパ会議」への参加記を書いたとき、

> 昨日最初の基調講演は、水俣市の吉井市長の講演でした。水俣の暗く悲しい半世
> 紀にわたる「負の遺産」を、地域や市民の「内面の再構築」を経て、前向きに転
> 換し、環境モデル都市に生まれ変わることで地域を癒し、地球を守ろうと努力さ
> れてきた非常に重いけれども、どこまでも前向きなお話に深く感動しました。

(中略)

> 私は水俣にお邪魔したことはありませんが、本当に美しい場所だそうです。
> 「魚がおいしいです、いらっしゃい、案内します」と市長にいっていただき、ぜ
> ひ!と思いました。

と書いたのですが、この「ぜひ!」が10年越しに実現したのでした。うれしかったです。水俣で教えてもらったこと、考えたことなどはまた少しずつお伝えしていければ、と思っています。

ところで、同じぐらい前に、石川英輔氏のご本の内容をご紹介しました。

石川英輔氏のご本を参考にさせていただいて、ジャパン・フォー・サステナビリティ(JFS)で、「日本の江戸時代は循環型社会だった」という記事を前後編で発信したことがあります。すると、たくさんのフィードバックが世界中から届いたのでした!

この記事はJFSのウェブサイトで読めます。(あとで後編を転載します)
前編 http://www.japanfs.org/ja/newsletter/200305-01.html
後編 http://www.japanfs.org/ja/join/newsletter/pages/027228.html

世界にも日本にも大きな気づきと自信(持続可能な社会って、かつてすでに実現していたんじゃない!と)を与え、現在の社会を見るひとつの枠組みを提供してくれる石川英輔氏や、近年持続可能な自給自足社会へのシフトを進めてきたキューバについてお話しくださる吉田太郎氏をお招きし、日本の産業界にとっての大きな「持続可能なビジネスモデル」の1つである循環型社会への興味深い動きについて話を聞くと共に、それらの事例や取り組みから私たちは何が学べるか、企業や個人として何をつくり出していけるかを考えていくセミナーをおこないます。

私もパネルディスカションにコーディネータとして登場する予定で、どんな話が聞けるのか、どんな議論が広がり深まるのか、いまからとても楽しみです!

企業の方も市民も学生さんも、ぜひご参加下さい。温暖化一色(?)の今、問題の構造から変えていくための大事な視点を得ることができると思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここからご案内〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

公開セミナー『循環型社会のつくりかた 〜新しい資源循環のかたち〜』

資源や環境の制約から、ものづくりの限界が現実味を帯びてきました。この制約を克服するために進められている技術開発も、この制約から達成できない可能性があります。

一方、わが国の江戸時代が完全循環型社会であったことは有名です。また、冷戦崩壊以降、経済封鎖の下にあったキューバも、物不足の中で独自の方法で危機を乗り越えてきました。これらは特殊事例なのでしょうか。わが国の現在の産業界に目を転じると、これまでゴミとして廃棄されてきたものを資源とみなし、近代的な持続可能な循環型社会の萌芽と言えるメンテナンスやリユース、リサイクル、中古製品流通等の環境サービスが胎動を始め、新たな資源循環をつくっています。

循環型社会への転換シナリオとその産業像や生活様式、社会システムについて、江戸、キューバ、そして現代の日本の事例を紹介し、歴史、社会、環境、工学など多様な視点から議論を展開する公開セミナーを以下のとおりに開催します。

参加ご希望の方は、 yukishikami@yahoo.co.jp まで、タイトルを「3/7セミナー参加希望」として、お名前の送付をお願いいたします。

共催:東京大学人工物工学研究センター
日時:平成21年3月7日土曜日 13:00〜
会場:東京大学本郷キャンパス工学部1号館15号講堂
   http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_02_j.html
定員:100名(参加費無料)

司会進行 内藤 耕

13:00 開会挨拶(竹中 毅)

13:10 「資源循環の「江戸」」(講演 石川英輔)

14:10 「自立へ取り組む「キューバ」」(講演 吉田太郎)

15:10 「環境サービス胎動の「現代社会日本」」(講演 内藤 耕・岸上祐子)

16:00  休憩

16:10 討論「循環型社会への転換シナリオ」(コーディネータ 枝廣淳子)

18:00 閉会

講師:五十音順
石川英輔(作家)
枝廣淳子(環境ジャーナリスト)
岸上祐子(編集/環境ジャーナリスト)
竹中 毅(東京大学人工物工学研究センター)
内藤 耕(産業技術総合研究所)
吉田太郎(長野県農業大学校)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ご案内ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ということで、CMのあとはJFSのニュースレターより、「日本の江戸時代は循環型社会だった(後編)」をお届けします〜。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日本の江戸時代は循環型社会だった(後編)
JFS ニュースレター No.8 (2003年4月号)

先月号では、石川英輔氏の『江戸時代はリサイクル社会』などを参考に、なぜ250年にわたる自給自足の循環型社会が可能だったのか、江戸時代のリユース、リサイクルの様子をご紹介しました。今月号では、江戸時代のエネルギー事情をご紹介します。(3月号は、こちらで読んでいただけます)
http://www.japanfs.org/ja/newsletter/200305-01.html

先月号に書いたように、江戸時代(1603-1867年)の日本の総人口は3,000万人ぐらいで、2世紀半ものあいだ、ほぼ人口が安定していました。日本の首都であった江戸の人口は、約100-125万人で、世界最大の都市でした。

江戸時代の約250年間は鎖国をしていましたから、海外からは何も輸入せず、エネルギーもすべて国内だけでまかなっていたのです。

江戸時代の日本の社会は、太陽エネルギーだけで回っていました。植物は、水と酸素を使って、太陽エネルギーを枝や木、茎や実に変換します。「この1年に伸びた枝や植物や実をエネルギー源として使う」ということは、「この1年の太陽エネルギーを(植物という形で)使う」ということに他なりません。

江戸時代には、前年の太陽エネルギーだけを考えれば約8割、過去3年間で考えれば、生活必需品の95%は、太陽エネルギーでまかなっていました。過去2-3年の太陽エネルギーだけでほぼすべてをまかなえた江戸文化は、持続可能な文化だったのです。

太陽エネルギーを利用して物資を作り、さらにそれをリサイクルさせるための具体的な方法は、徹底した植物の利用でした。衣食住に必要な製品の大部分が植物でできていました。太陽エネルギーでまかなえなかったのは、石、金属、陶磁器などの鉱物でできたものくらいです。

江戸時代の日本は、単なる「農業国」ではなく、あらゆる面で植物と共存し、植物に依存し、しかも植物を利用してすべてを生み出し、すべてを循環させる「植物国家」だった、と石川氏は述べています。

江戸時代の照明について見てみましょう。日本で商業的に発電所からの送電が始まったのは、1887年11月でした。石炭燃料による発電機がはじめて動いたのです。それ以前の夜間照明は、日本の国内でできる油や蝋(ろう)を行灯(あんどん)や蝋燭(ろうそく)の形で燃やすものでした。

照明用の油は主に、ごまやつばきの実、ナタネ、綿の実などから取っていました。クジラの捕れる土地では鯨油を使い、いわしが豊富に獲れる地域ではいわし油を使いました。油を絞ったあとの油粕(あぶらかす)は、良質の窒素肥料となります。

一方、蝋(ろう)は、ハゼやウルシなどの植物の実に含まれる脂肪分を絞り出して作りました。蝋燭は手間のかかる方法で作る高価なものだったので、灯したあとの蝋燭のしずくを買い集めてリサイクルする業者がいたことは、先月号でご紹介したとおりです。

このように、植物などに貯えられた過去1-2年の太陽エネルギーを、人力を使って絞り出し、光として使っていたのでした。

また、日本人の主食である米は、穀物として以外にも、脱穀したあとに残る藁(わら)という重要な資源を生み出していました。稲作の副産物である藁は、米150kgあたり124kg前後とれます。昔は、衣食住の広い分野でさまざまに使われる貴重品でした。

稲作農家では、収穫した藁の20%ぐらいで日用品を作り、50%を堆肥にし、30%を燃料その他に使いました。燃やしたあとの藁灰も、カリ肥料となりました。つまり、100%利用し、すべてをリサイクルして大地に戻していたのです。

日用品として「衣」では、編笠や雨具である蓑(みの)、藁草履(わらぞうり)など。農家では農閑期に、自家用に作るとともに、売って現金収入源としました。

「食」では、藁で米俵のほか、釜敷き、鍋つかみなどの台所用品を作ったり、納豆を作るときに利用しました。また、牛や馬に食べさせたり、敷き藁として使い、排泄物から堆肥を作りました。

「住」でも、草屋根、畳、むしろ、土壁の材料など、あちこちに藁が使われていました。

藁以外にも、たとえば、衣料品は、絹や木綿、麻など、すべて畑でできるものが原材料でしたし、紙も楮(こうぞ)という木の枝を切って、その皮を紙に漉きました。また、古紙を集めてリサイクルする業者がたくさんいました。

暖をとるための火鉢やこたつに使う木炭、風呂を沸かすための薪などは、何年もかけて育てた森林を切ってつくるのではなく、次々に生えてくる雑木を利用していましたから、過去1-2年の太陽エネルギーが育てた範囲で収まっていました。

石川氏は、興味深い試算をしています。現在、日本の山林に生えている木を人口で割って見ると、一人当たり50トンになります。木の成長率は平均すれば年約5%ですから、それで計算すると毎年2.5トンの配当がつくことになります。この2.5トンの薪を燃やすと、約1000万キロカロリーです。

現在の日本人は、年に4000万キロカロリーを使っていますから、薪をエネルギーに使えばその4分の1をまかなえることになります。江戸時代の人口は現在の約4分の1だったので、現在の一人あたりのエネルギー消費量で計算しても、総エネルギーを薪でまかなえます。

ほとんどの動力源が人力だった江戸の人々は、現代人の何百分の一しかエネルギーを使っていなかったでしょう。また、江戸時代の森林面積は、現代よりも広かったので、木の成長量よりもずっと少ない使用量でエネルギーをまかなっていたと考えられます。

          参考:石川英輔著『大江戸リサイクル事情』(講談社文庫)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

石川英輔氏はお忙しくてなかなかお話を聞ける機会もないと聞きました。このセミナーへの登壇はご快諾くださったとのこと、とてもうれしく楽しみにしているところです〜。ぜひごいっしょにどうぞ!

 

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