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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2008年10月24日

武田邦彦先生とのパネル・ディスカション その3(2008.10.24)

温暖化
 

(前号からのつづきです)

第二部では「自治体の環境行政を考える」のテーマのもと、特に2010年に近くの名古屋で開催される生物多様性条約の締約国会議(COP10)などをめぐってのディスカションを展開しました。

(5人のパネリストのうち、私と武田先生のところだけを抜き出しているので、多少つながりがわかりにくいところがあるかもしれません)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

枝廣 
地域が環境問題にかかわるときに、いくつか大事なことがあると思っています。自治体にしても地域にしても、これまでの多くの活動が「とりあえずまずできることからやろう」「ほかもやっているからやろう」--だいたい、そういう形で環境の活動をやっている所が多かったように思いますが、大事なポイントが2つあります。

1つはまず、そこの地域、たとえば三重県だったら三重県、四日市だったら四日市が、どういう県になりたいの? どういう町にしていきたいの? その理想的な姿を最初に描くことだと思います。

「できることをやっていこう」というのと、「あそこに行きたいからこれをやっていこう」というのでは、全然動き方も道すじも違ってきます。だから、三重県が50年後にどういう県になっていたいの? 四日市市が30年後にどういう都市になっていたいの? それといまと何が違うの? そのギャップを埋めるためにどうしていったらいいの?と考え、だからこれをまずやろう、と進めていく。そういう順番だと思います。

私は、総理の「温暖化に関する懇談会」の「環境モデル都市の分科会」の委員も務めています。この環境モデル都市に82都市から応募があって、その審査もさせていただいたのですが、そういう機会があってはじめて、たくさんの都市がとても思い切った目標を出してきました。大きな目標を出してはじめて、「大きく変えるにはどうしたらいいか」と、考えが進むのだと思いました。なので、地域から活動するときにも、その地域の理想的な姿を描くということが、とても大事なんだろうなと思います。

もうひとつ、自治体ないし国もそうですが、先ほど話したこととも重なりますが、かけ声だけでは竹やり争になってしまうんですね。「やらなきゃいけないからやるんだ」とか、「やらなかったら困るからやるんだ」ではなくて、意識が高くなくても行動を変えたくなるような「仕組み」をつくっていくところが、私は行政の腕の見せどころだと思います。

みんなの意識が高ければ、別に言わなくても行動するんでしょうけど、残念ながらそうではないし、みんなの意識を高めるにはとても時間がかかってしまう。だったら、意識が高くても高くなくても行動したくなる、もしくはしないと損するような仕組みをつくるというのが、人々の行動を大きく短期間に変えるやり方です。これは、いま自治体でいろんな面白い事例が出てきていて、お互いに学び合って、もっともっと広がればいいなと思っているんですが。

たとえば先ほどのエコ通勤の話がありましたね。これは企業でも自治体でも同じですが、通勤手当ってありますね。同じ距離を自動車で通勤するときと自転車で通勤するときと、どっちがたくさんもらえると思います?

アンケートを取った自治体があるんですが、75%は、同じ距離を行くんだったら、自動車で行ったほうが通勤手当をたくさんもらえるという結果でした。多くの場合、自転車で行っても通勤手当はもらえないんですね。そうすると「自転車に乗ろう」「自動車をやめよう」とかけ声をかけても、やっぱりお金がどちらにつくかというのが、人の行動に影響しますよね。

面白い例が、名古屋市の事例です。たとえば5キロまでの通勤に対して、名古屋市は、かつては自転車で来ても自動車でも、2,000円の通勤手当を出していました。それを、2000年だったか、変えたんですね。5キロ以内通勤する場合、自動車で来たら、これまで2,000円だったのを1,000円に下げました。同じ距離を自転車で来た場合は、2,000円だったのを4,000円に上げたんですね。3,000円の差ができたわけです。

これで3年後、調査をしてみると、自動車通勤は25%減り、自転車通勤は50%増えていました。たとえばこういう仕組みを上手につくることというのが、自治体の大きなポイントだろうなと思います。

最後に、生物多様性の話があったので、そちらについて少しコメントをすると、生物多様性というのはとてもわかりにくい、なかなか伝わりにくい言葉ですが、多様であることの力を大事にする、取り戻すということだと思います。

たとえば、1つの畑に1種類の作物だけを育てていたとしたら、それがかかる病気がはやったら、みんなやられてしまいますね。でも、混作といって、さまざまな種類を植えておけば、どれかはやられるかもしれないけど、生き残れるものもありますよね。単一作物のほうが、短期的な効率はいいですが、混作、多様性を重視したほうが、長期的な安全性は高まります。

いまの経済だと、どうしても短期的な効率を重要視するので、多様性を削って、削って、削って……とやってきていますが、それは長期的なことを考えたら、ほんとはマイナスのことをやっているんじゃないかと思うことがよくあります。

生物多様性は――多様性が必要なのは生物だけではなくて、社会の中の多様性も大事だし、同じ動きだと思うのですが、生物多様性で言うと、これまで人間があまりにも越境して、人間以外の生物種のところに入り込んでしまっていたので、多様性をもう一回取り戻そうとしたら、人間は引くしかないんですね。ですから撤退するという動きになります。さっきのコンクリートだった川を、もう一度自然の川に戻すとか。それはある意味、人間が撤退していくということだと思うんです。

これは、非常に新しい“技”になります。これまで人間は、特に行政は、つくること、「前に進む」ことだけをやってきました。だからこれはすごく得意なんですね。計画して前に進んで、というのは得意。

でも、途中で考えを変えてやめることとか、元に戻すこととか、それはこれまで習ってもないし、やってきてもない。評価もされない。そういうことをこれからやっていく“作法”というか、“技”というか、“知恵”というか、それを身につけないといけない。生物多様性というのは、おそらくそのための大きなきっかけになると思っています。


武田 
私個人は、何で名古屋市の中に牧場がないのかなと思っているほうだし、よく森のほうに行くのも好きなんですけど。それはそうなんですけどね。それから今日は、ここに来られる方は、多分、環境というものに興味があって来られているので、私が今から言うこととはまったく違うお考えなので、私が言うことには大変お腹立ちになると思いますが、心にあることをきちんと言わなきゃいけないので、そのまま申し上げます。

中学生でいま、物理を履修している学生が10分の1に減りました。私は工学部で学生を教えておりますけれども、機械とか電気に興味を持つ学生はほとんどいないんです。なぜかと言うと、やったら不安を感じちゃうんですよね。だって、自動車はいらない、電気はいらないと。昔の電車でいいと。自転車で走れというのは、自転車を改善するって、あまり改善できないものですから。

このまま行くと、あと30年後には、日本にはトヨタ自動車も松下電器もできなくなるんです。だって、トヨタ自動車を運営するためには機械工学の人がいるんです。それから、松下電器をつくるためには電気の人がいるんです。僕らの時代は、物理履修率98%でした。従ってトヨタ自動車ができ、松下電気ができ、四日市の化学工場ができて、われわれは現在豊かな生活をしているんです。

環境には確かに問題はあるんです。問題があることはわかるんですが、僕は第1部で、「私たち大人は孫に対して責任がある」と言ったんですが、本当にいいのかと思っているんです。「環境」「環境」と言って、本当にいいのかと。自治体も「環境」と言っているんですけど、環境って、そんなに悪くないんです。1990年から多分、四日市市もほとんど環境の患者さんはいないと思います。昔、随分問題がありましたけど。

私たちが、もし「環境」「環境」と言い続けたら、30年後の日本人はすごく貧乏だと思います。エネルギーもなくなってきますから。だから本当に貧弱な生活をするようになると思います。私は太陽エネルギーなんか、全然だめだと思っています。計算したら、まったくだめですからね。生活程度を10分の1ぐらいに減らさないといけないです。

僕はこう思っているんです。いま、私たちがそういう生活をしているなら、孫たちにも「そういう生活をしてもいいよ」と言えるんです。だけどわれわれは、いまマンションに住み、テレビつき、電気つき、自動車に乗って、やりたい放題やって、グルメ食べて、そして「貧乏生活でもいいじゃないか」と言っているんです。

そしたら、孫たちに残せるのは何かと言ったら、トヨタ自動車も廃業、松下電器も廃業です。そしたら孫たちは、くみ取り便所になっちゃうんです。本当にそれでいいと思って僕らがやっているのかということです。われわれのノスタルジアとか、人気取りとか、そういうことではないのかなと。

僕なども年寄りですから、昔の日本に戻るというのにはノスタルジアがあって、いいんです。だけど、それをやっちゃうとね。僕は中学生の決意表明なんか、大反対です。あんなことをさせていたら、あそこで「皆さんでごみを拾いましょう」と。昨日、僕、どこかを通ったら、中学生が環境活動の一端で、道路の脇のごみを拾っているんです。そんなことをするなら勉強しろと。

僕は、環境がいらないと言っているんじゃないんです。本当に、ああいう活動をさせておいて日本の将来があるか、というのが心配なんです。やはり日本は、人口密度世界一ですから。そして今は、すごく僕らは豊かな生活をしています。私は、自分がこの豊かな生活を捨てられるなら、孫たちにも環境教育をする。だけど、僕らがいま豊かなのは、僕らが物理をやったからなんです。僕は物理の先生だからって、物理を宣伝しているんじゃないですよ。本当にそう。

だから、今日、よく考えてもらいたいと思うのは、私は反対なんです。中国の方もおられるかもしれないけど、これは日本という意味で言いますが、日本の親の大切なのは、日本の孫を守ることであって、中国人の孫は中国の人が守ればいい。

いまは、中国と日本が競争しているんです。どんどん負けているんです。なぜかと言うと、日本が環境のことを言って、向こうが産業のことを言っていますから。これを30年続けたら、完ぺきにやられちゃいます。もういまは、人工衛星、日本は人間を上げられないけど、向こうの人工衛星は人間を上げていますよね。

これで本当に私たちは、私たちの子どもに対して責任を持てるのか。環境って、遊びじゃないのと思うんですね。僕は、その点ではやはり、枝廣さんの言ったことを言えば、われわれはどういう社会を目指しているのか。いまのまま行くと、私の計算では、非常に貧乏な日本になります。それで耐えられるかということです。

私が、「名古屋の中に牧場がいる」とか「涼しい川がいる」と言っているのはなぜかと言ったら、私が豊かだからです。それはよくわかっている。

ドイツもそうです。ドイツも、ヨーロッパでトルコの低賃金の人なんかをどんどん使っているわけです。その人たちはひどい生活をしているわけです。だけどドイツの中級より以上――ヨーロッパ人というのは、ここ100年ぐらい、アジア、アフリカを圧迫して、うんと金を取ってきたわけです――その富で貴族はああいう生活をしている。僕も貴族みたいなものです。だから私がいい生活をしているから、私の孫は貧乏でいいと、それは言えるのかなというのが、ちょっと私は疑問です。それが一点。

もうひとつは、日本は自然とともに、ヨーロッパは自然を征服する。日本は自然の中に溶け込むという基本的な文化を持っているんですね。ですから100年住宅というのに、僕は非常に不信感を持っているんですが。100年住宅というと、住宅を100年使うからいいと言うけど、日本は建て替えるところがエコなんです。違うんですよね。文化というものが違うんです。

だから伊勢神宮は20年ごとに建て替えるんですが。伊勢神宮はなぜ20年ごとに建て替えるのか。なぜ日本には、これは全然地震と関係ないですが、レンガ造りの建物が定着しないのかというのは、日本人が自然の中に溶け込みながらやってきたということの、ひとつの例です。

ですからエコというのは、そんなに簡単なことではなくて、われわれの生活全体とか、本当に私たちが人生をどう送るかというのが、ものすごく大きく問われるので、良い子、良い子でやっていくのはあれだし。

いまの日本でも、すごくつらい人たちがいっぱいいるんです。ドイツは、飢えている人はいないんです。だけど、世界には8億人の人が飢えているんです。飢えている人たちはなぜ飢えているかと言ったら、物理学者がいないからです。物理の技術者が。自動車もつくれない、電気もつくれないから、飢えるんです。なぜかと言ったら、食糧は全部、金で買うわけですから。金がなかったら飢えちゃうんです。

日本の穀類自給率27%です。このまま行ったら日本人は飢えちゃう。だから、あまりに環境を表に出す、特に中学生などを洗脳するのはもってのほかで。僕は、中学生はどんどん勉強しろと。そして明日の日本をつくってくれと。こういうふうに言って、環境が大切だったら僕らがやればいいんです。老人が。そしてそれで少し若い人にも見本を示すということはいいかもしれません。

私、あるテレビで、「環境を守るために、若い人が最近モノにぞんざいだから、環境税をかける」と言うから、「とてもカッコいいことを言うようで恐縮だけれども、もし環境税をかけるんだったら、僕が若い人の分の2倍払う」と言ったんです。私には、年を取ってやることないんですけど、若い人はこれからやることがあって、張り切ってやってもらわないといけない。次世代の日本を残すため、発展する四日市、住みやすい四日市を守るためには、よその市のことはあまり言いませんが、環境なんかやっていたら、レジ袋とか節約とかやっていたら、全部だめになっちゃうんです。

節約というのは、いまの状態をだんだんシュリンクしていくんです。小さくしていくんです。そうじゃなくて、違う世代に移らなくちゃいけないんです。移るときには、学力がいるんです。学力以外は、人間は頼りにならないんです。なぜ、ライオンがあんなに筋肉があっても、檻に閉じ込められているかと言ったら、人間に知恵があるからです。なぜヨーロッパと日本が非常に所得が高くて、アジアとかアフリカとか、ひどいのかと言ったら、やっぱり知恵の力です。

だから、われわれは全部それを捨てて、知恵じゃない世界に行ってもいいけど、その代わり平均寿命は下がるし、蚊には刺されるし、ひどいことになるわけです。どっちを選ぶかは四日市市民が考えることですが。僕は、環境を捨てて物理の勉強をさせることを勧めたいと思いますが、突拍子もないので、受け入れられないとは思いますけど。

(ここでコーディネータの方が、「環境を守るためでも、いまの生活レベルは変えたくないという方、どのくらいいますか? 環境を守るために、生活レベルを落としてもよいと思っている人はどのくらいいまか?」と会場に問いかけました。そんな中、会場から「変えるのと下げるのは違う」という声があがりました)

枝廣 
いまの会場の方々にお聞きになった問いかけと、いまのやりとりは、本当に象徴的というか、あちこちで出会う、いちばん大事なところだと思います。つまり、私たちが究極目指しているのは何なのかということですよね。それは、たとえば「幸せ」という言葉を使う人もいるし、「豊かさ」という言葉を使う人もいる。

私がよく思うのは、経済的なGDPとかは定義がはっきりしているけれど、私たちが生きている、もしくは社会を営んでいる、経済を営んでいる本当の目的に関する議論や定義を、これまであまりしてこなかった、ということです。たとえば「幸せ」とか「豊かさ」とか「収入レベル」とか「生活の質」とか「生活レベル」とか、いろいんな言葉が使われるけれど、きっとみんな、いろいろな意味で使っているので、議論が食い違ってきてしまうんですね。

いま大事なのは、「私たちは幸せに生きたい」ということ。その幸せということが、物質的な豊かさとイコールの人もいるし、イコールでない人もいる。イコールでない幸せを増やしていこうという人たちもいる。

たとえば、物理的な、物質的な豊かさを求めたとしても、それをいまのように地球に負荷をかけないでもできるようなやり方も出てきている。そういったことを考えていかないと、何か「豊かさや幸せを考えよう」と言った途端に、「でも、生活レベルを下げたくない」とか「収入は欲しいんだ」とか、そういう議論になってしまって、話がうまくいかないときがよくあるなと思います。

たぶん、私たちが目指しているのは、幸せに生きたいということだし、私たちが本当に幸せに生きるためには、次世代や人間以外の種に迷惑をかけていては、本当の意味では幸せではないと思うんですね。それを知っていれば。知らない幸せというのもあるかもしれないけど。なので、できるだけ身の丈というか、地球の許容量の範囲の中で、それぞれの世代が生きていくこと。その中で幸せを最大化していくことだと思います。

幸せはどんどん増やしたらいいと思うんです。満足もどんどん増やしたらいい。でも、これまでは、それにもれなく環境負荷、環境への影響というのがついてきた。

貧しいときはそうです。日本もそうだったと思います。戦後、いまの途上国もそうですが、たとえば1日1食しか食べられなかった人が、2食、3食となったら幸せですよね。その幸せを増やすためには、やはり物質的なものが必要なわけです。

でも、日本のように、先進国のように、あるところまで豊かになったら、物質的なものを増やすことが幸せを増やすことにはつながらない。もしくは逆に、幸せを下げることにもなっている。これは、今日はデータをお見せできないのが残念ですが、GDPは増え続けているけれど、幸せを測る指標は、あるところ、70年代ぐらいから頭打ちで、それ以上増えていない、もしくは最近減っているというデータもあります。私たちは別にGDPを増やすために生きているわけじゃない。

としたら、私たちの幸せを何で測っていくんだろう? そういった議論を、やはりもっと本格的にやっていく時期なんだということを、いまのやりとりを聞いて思いました。

武田 
僕が言ったことはまったく全然違うんです。質問もあれだったんだけれども、僕が言ったことは、いまのわれわれは、心の豊かさを求められるんです。だから僕は、いま以上にモノを増やそうとか言ったのでは全然ないんです。

いま枝廣さんの言ったことは、僕が言ったことと全然違うことを言っているんですね。私は、このまま行ったら、50年先ぐらいに、日本人は1日に1食しか食べられなくなるけれども、私たちが3食食べているから、私たちの孫は1食しか食べなくてもいいという政策がいいんですかと聞いているわけです。

もちろん僕なんかも、もういらないと思っているんです。生活レベルを落として地球を守るとか、そんな話じゃないんです、僕が言った話は。日本人は日本人の孫を守らなきゃならない。それには私たち大人に責任がある。本当に物理を勉強する人が10人に1人だったら、現実的にトヨタ自動車と松下電器がなくなっちゃうんです。なくなったら、食糧を買えなくなるんです。それでも本当にいいと思ってやっておられるんですかということです。私たちの世代のことではないんです。私たちの世代にそういう舵を切ったら。私たちは裕福だから、ドイツにあこがれるんです。

だけど、それは裕福だからあこがれているので。私たちは、トヨタ自動車と松下電器のドルをもらって生活しているんです。それがもらえなくなるような政策なんです。中学生にそういうことを教えているんです。それは本当にいいことなのかということです。

われわれはいま、発展した先進国にいるけれども、これが現在の途上国みたいになるんだけど、それでいいんですかと言っているわけです。それは一人ひとりが考えることだから、いいんだけど、いまは僕らが裕福だから。僕らの孫も裕福だと思っている。だけど僕らが裕福なのは、自動車会社と電気会社があるからです。

定義の問題じゃない。そこに持っていかないで。裕福が幸福をもたらすかどうかなんて、僕なんか全然、裕福なんか幸福をもたらさないと言っているんです。枝廣先生が言ったグラフも知っています。だけど、そういう問題とは全然桁が違うと言っているんです。われわれが生存の基盤を失うわけだから。

今から80年前、平均寿命は43歳です。われわれが救急車を呼べば病院で手当を受けられるのは、この経済力に支えられているんです。経済力に支えられているから、われわれは病院にかかることができるし、手術も受けることができるんです。受けられなくなっちゃうんです。それを孫の世代に残していいのかということです。

もうひとつは、物理の学生が10人に1人になっても、トヨタ自動車と松下電器があるということを証明してほしいんです。大人の責任です。それから、トヨタ自動車と松下電器がなくても、われわれの孫は幸福だと言い切ってくれるなら、それはそれで意見は通っている。それをちゃんと言ってほしい。

枝廣 
ごめんなさい、さっき、ちゃんと言わなかったみたいで。私がさっきコメントをしたのは、武田先生がおっしゃったことではなくて、コーディネータの方が会場に質問したときに、下げるというのを、「何を下げるか」という話があったので。それはずっと考えていることだったので言ったのです。

たとえば、環境を押しつけているせいで物理を履修する中学生が減っているのかどうか、そこの因果関係は、私ははっきりわかりませんが、何であったとしても、人々の関心ややりたいことを狭める力が働いているとしたら、それは先ほど言った多様性を重視するということに反していると思うんですね。

それは環境だけではない。いろいろな、そのときどきのその時代に力で、人々をある方向に向けようとする力は働くわけです。それが社会の、中学生が何を履修したいかということも含めて、多様性を損なう方向に向かっているとしたら、それは多分、環境そのものがいい、悪いではなくて、出し方や押しつけ方が間違っているという点では、私は武田先生がおっしゃっていることと、そう違う意見ではないと思います。

その多様性を保障した上で、それぞれの中学生が、たとえば「自分はいま環境問題が大事だと思うから環境を考える」とか、「環境技術をやるんだ」とか、「自動車よりもそうじゃない技術を勉強したいんだ」と。そういうふうな形で、もし履修する学生の割合が変わっているんだとしたら、それはそれぞれが考えてのことなので、いいことだと思っています。

大事なポイントは、トヨタや松下というのはひとつの例だと思うんですが、いまおっしゃろうとしたことときっと同じで、産業でGDPを稼ぎ出して、それで食糧やエネルギーを輸入して成り立っているという、いまのこの日本の社会のあり方そのものが、持続可能かどうかということです。

私は、物理を学習する生徒が増えても減っても、トヨタや松下が、いまのままでずっとGDPを稼ぎ続けるとは思っていません。ですから彼らも、ビジネスモデルの転換を一生懸命図っているのです。

ですから、何かモノをつくって、モノを売って、それでお金に換えて、食べ物やエネルギーを買って、それで幸せになるという、その方程式そのものがこれから変わっていくし、変わらざるを得ないと思っています。

たとえば、私たちが幸せだと思う瞬間、そのどれぐらいが物質に支えられているか。もしくはお金に関係しているか。昔、貨幣経済がなかったころ、人間の幸せは100%お金以外で得ていました。自然とのやりとりや、周りの人とのやりとり。でも、貨幣経済が出てから、お金が幸せを運んでくる割合が高まって、いま、人によって違うでしょうけど、9割近く、10割近く、お金が幸せに変わっている。少なくてもそう信じている人が多いと思います。

その場合、お金というのは、たとえばグルメであったり、何かぜいたくなものを買うことだったり、モノにつながっていることが多い。そうすると、その幸せのためには、モノやエネルギーをたくさん使わなきゃいけない。それは前半でお話をしたように、地球の現状から見たときに、多分、持続可能な幸せのあり方ではない。

なので、「幸せの脱物質化」という言い方をしているんですが、私たちが幸せを得るときに、モノ以外で、エネルギーを使わないで、お金を介さないで、そして幸せを得る割合を増やしていくことは、私はできると思っています。それをすれば、幸せは減らさないで、物質やエネルギーは減らすことができる。CO2も減らすことができる。

こういうふうに、これまでくっついていたものを分けることを「デカップリング」といいますが、こういったことを考えていくことも大事だし、そういった中で、産業がこれまで果たしてきた役割と、これからの持続可能で、そういった意味では、だんだん条件が非常に厳しくなっていく社会の中で、産業がどういう役割を担って、私たちがそれにどういうふうに頼って、もしくはどういう関係性をつくっていくか、を考えていくことです。

これまで通りを続けていくことはできないし、続けていく必要もないし、そのあたりをきっと、もっともっと考えないといけないんだろうなと思います。

(このあと、他のパネリストの方々のコメントがありました)

武田 
どうも、大変ひんしゅくを買う意見を言って、大変恐縮です。僕は、自分の行動と自分の意見を合わせておくということに全力を注いでおりまして、私がもし「温暖化が危ない」と言うんだったら、私はいまの仕事を辞めるんです。辞めないとCO2の発生は止まりませんから。

ですから、これは非常に重要なことで、いま僕が何を心配しているかと言ったら、先ほど言いましたように、私たちの子どもに、非常に激しい言葉で言えば、いまのわれわれの錯覚か利権かわからないけれども、そういうことで教育をして怖がらせて、「環境」「環境」と言って、それで子どもたちが本当に激しい国際競争に投げ出されてみると、「あれ? おじいさんは激しい国際競争を結構やっていたんだね」と。「だけど私たちにはもう、激しい国際競争はできないんだな」となったときに、それも含めて、私たちは責任ある行動を取っているのかということに対して、私自身も少し疑問があるということを、ちょっとお話ししたわけです。

もちろん、現在の河川のつくり方なり、まちづくりなり、私たちがいま心に大変に不満な状態、つまりこのままではだめなんだと。大量消費し過ぎるし、ごみも多すぎるし、と感じていて、自然とも離れていると。ストレスも大きいということを感じていることは確かなんですね。私もそうです。最近、蚊もいないんです。ハエもいないし、蚊もいないし、スズメもいないんです。こんなのは異常だと、僕も思うんですけど。

だけどその私の感覚で、日本の大きな、50年後の舵をほんとに切るだけ自分は厳しく考えているのかということに、ちょっと疑問があったので、さっきも申し上げたんですね。私たちの子どもたち、孫たちが、本当にそれでいいと思うかなと思って、そこのところを大変に疑問に思いました。私の感覚とも違うことを、私は言いましたけれども、そういうこともあるということで、少しお考えいただければと思います。

枝廣 
武田先生が繰り返しおっしゃっていたことで、「中学生とか子どもの洗脳をするのはいかがなものか」と。多分、違った角度からですが、私も近い感覚を持つことがあって、行政の人と話をしたり、産業界の人と話をしても、よく「次世代の教育しかない」という言い方をされるんですね。いまの世代、大人はもう、なかなか行動は変わらないから、次世代の教育しかないという。

私は、それはすごく無責任だと思っています。次世代の教育も大事ですけれど、でも、現世代の行動を変えないことには責任を果たせない。私は、温暖化は進んでいるというふうに思っている立場なので、次世代が大きくなって社会の中枢を担って、社会を変えていく十何年待つことはきっとできないだろうと思っています。だから、現世代の行動も変えないといけない。

よく大人が、「生きる力を子どもにつけなきゃいけない」と、心のノートとかをつくったりしているんですが、あれは別に子どもたちの責任ではなくて、生きたいという社会になっていないから生きる力が出ないんだろうと思います。「あんな大人になりたい」という、そんな大人がどれぐらいいるのか。そういう魅力的な大人とか、魅力的な社会があってはじめて、その中で生きたいという気持ちが出てくる。

それがなくて、生きる力を注射のように、外から与えてやろう、みたいな。そういう大人から子どもを見ている子ども観ということそのものが、武田先生の反発と重なるところがあるかもしれませんが、よく問題だなと思います。

やっぱり、大人が子どもにしてあげられる最大のことは、これは大人自身もそうですが、自分で考えて、自分で選んで、自分で決める力をつけることだと思います。状況は変わっていくし、新しいこともいろいろわかってくる。そのときどきに子どもたちが、もしくは私たち大人が、どうやってそれを考えて、どうやって選んで、どうやって自分で決めていくのか。その力さえついていれば、どんな状況になっても、どんな新しいことがわかってきても、それぞれの人が、きっと考えて進めていける。ですから本当の教育って、そういうことではないかなと思います。

自分で考えたりする上で大事なのが、多様な意見があるということです。自分と同じ意見ばかりだったら、考えようがない。差があってはじめて、どこからその差が生まれるのかということで、考えが進むんですよね。そういった点で、今日、ドキドキしながら武田先生とご一緒させていただいたんですが、いろいろ自分で考えるきっかけになって、うれしかったと思います。

正直な話、特に、自分の価値観、本当に大事だと思っていることにかかわる多様な違う意見が出てきたときには、すごく不安になるし、落ち着かない気持ちがするし、できればそういうことを聞かずにすませられればいいなと思うこともあります。でもやはり、それはひとつの大事な場なんだろうなと思います。

武田先生は、「温暖化を考えたら、自分は仕事を辞める」と言っていらっしゃいましたが、私は、さっき話した「直接の影響、間接の影響」をいつも考えています。

私がここへ来て参加をすることで、二酸化炭素を出してきています。でも、もしここで皆さんがいろいろ聞いてくださったり、そのあと考えてくださったことで、何らか最終的に、間接的な影響ですが二酸化炭素が減って、私が出してきた二酸化炭素以上に減ることがあれば、私がここに二酸化炭素を出しつつ来た意味もあると。講演で飛行機を使うことも多いので、そういうふうに考えています。

そういった意味で、もし、私を含め今日のお話が、皆さんの何らかのきっかけとか考えるひとつの手掛かりになったらうれしいなと思っています。ありがとうございました。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

議論になっていたのかどうか、よくわかりませんでした。。。たぶんなっていなかったように思います。。。会場の方々はどのように聞いてくださり、どのように感じ、考えられたのかなあ?と思います。

自分のトレーニングとしてはとてもよい機会でした。絶対に反論というか正さなくてはならないところ(そうしないと、来場者が誤解したまま帰ってしまう)はしっかり言いつつ、自分の持ち時間の中で、本当に来場者に伝えたいこと、持って帰ってもらいたいことをいかに伝えるか、その場で判断しながら話すことになります。

自分の感じとしては、80〜90%は会場に向けて、10〜20%は武田先生や先生のおっしゃっていることに向けて、話していたように思います。

今年の3月、福田総理の「温暖化問題に関する懇談会」のメンバーに選ばれ、最初の懇談会を翌日に控えた夜、ある方からアドバイスをもらいました。「いろいろな立場や考え方の委員がいるからね、聞いていたら反論したくなることもあるだろう。しかし、自分の貴重な時間を反論に使ってはいけないよ。総理だけを見ること。総理に伝わるように話すことに全精力をつぎ込むことだ」。

このアドバイスは、懇談会や分科会での会合でも私の指針となってくれています。また、どんな場面でも、だれと議論しているときでも、「本当にわかってもらいたいのはだれなのか、だれに伝える効果を最大限にすればよいのか」を考えて、伝える方法や内容を考えるようになりました。

 

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