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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2005年05月17日

「価値観を変える」ということ

新しいあり方へ
 
市民向けや市民が参加している環境シンポジウムや講演会で、「環境を守るには、価値観を変えなくてはなりません」というような言葉を聞くことがあります。 昨日の講演会でも、私の講演の後に「価値観を変えなくては」という言葉が出ました。私は前からこの言葉にひっかかっていたので、少し時間をもらって、返事をさせてもらいました(別に質問されたわけではないのですが。 「よく価値観を変えねば、といいますが、私はそんなに大それた、大変なことではないのではないか、と思っています。同じように、『ライフスタイルを変えよう』とよくいいます。毎日毎時、何をどのようにするか、その積み重ねが"ライフスタイル"といわれるものであって、"ライフスタイルを変える"といっても、じゃあ車をやめようとか、全部有機食品に切り替えようとか、そういう大きな変革じゃなくて、歯を磨くときに蛇口を締めていなかったけど、今日から締めようとか、そういう小さな行動を変えることじゃないかと思うのですが」と話しました。 講演が終わって出口のところにいましたら、一人のおばさんが近づいてきて、「最後の話がとってもよくわかりました。それまでの話は難しいこともあって、あちこちチンプンカンプンでしたが、最後のはすごくよくわかりました」といってくれました。励まされる思いで、帰りの新幹線で"価値観を変える"について、もう少し整理して考えてみました。 まず、「価値観を変えなくては」という言葉は、私にとっては何の意味も伝えてくれない言葉だなぁ、と思っています。「それは難しい問題ですね」というのと同じレベルに聞こえてしまう。 もし「価値観を変えなくては」というのなら、
(1)価値観とは具体的に何か
(2)どうすれば変えることができるのか(価値観変容キットとか)
(3)変わったらどうなるのか
せめてこの3点セットぐらいは教えてくれないと、と思うのです。 私が20年ぐらいお付き合いのある企業教育専門の会社では、「企業風土の変革」も請け負っています。企業風土、企業文化というのは、ある意味で、"企業内で共有している価値観"でしょう。 そういう意味では、この変革プログラムでは、価値観を定義し、行動レベルまで落とし込んで、変容のためのプログラムを用意し、実際に変わったかどうかを測定する、という作業をしているのだと思います。このように、ある目的やある範囲内で、価値観を定義し、変容することは可能だと思います。 でも私たちがよく聞く「環境を守るためには、価値観を変えよう」というのは、もっと漠然とした言葉に聞こえます。そもそも「価値観」って何だろう? 価値観とは「自分が大切だと思っているもの」だと思います。そして、その人の行動や判断の中核にあるもの、でしょう。 もう少しいうと、「自分が大切だと思うこと」はいくつもあるはずです。地球環境は大事だ、自分の健康も大事だ、友達との楽しい交流も大事だ、おいしいものも好きだ(^^;)などなど。 こういう「大切だと思うこと」は時に(しばしば、というか)拮抗します。友達と楽しく飲みたい、でもお酒は控えろと医者に言われている、ビールを造るためにどのくらいの穀物を使っているのだろう? 環境に悪いのではないか?等々。 そのようにぶつかり合うときに、時にはこっちを選び、時にはあっちを選ぶ。そのバランスの取り方こそが、「価値観」と称されるものではないかなぁ、と思います。そうだとしたら、そんなビミョーでフクザツなもの、変えようと思って変えられるものではないんじゃない? と思います。 それからもうひとつ、「変えなくてはならないのは、行動である」とも思います。価値観が二酸化炭素を排出しているのではなく、私たちの毎日の行動が二酸化炭素を出しているのだ、と。 最初に書いたように「価値観が行動を左右する」という観点から、「行動を変えるためには、価値観を変えなくては」となるのだと思います。でも本当にそうだろうか? ご自分の毎日の行動をちょっと考えていただければわかるのではないかと思いますが、私たちの行動のほとんど(80%ぐらい? 裏づけはないですが)は、無意識の行動ではないかと思います。 最初に自転車に乗ったとき、自動車の運転をしたときは、すべての行動が「意識的な行動」です。でもそれが慣れてくると、自動化されてきます。そうじゃないと(すべての行動を意識しながら行うとすると)大変です。疲れちゃいますよね。 たとえば歯を磨くとき。歯ブラシに手を伸ばして、チューブのふたをあけ、歯磨き粉を歯ブラシにつけて、ちょっと水をつけ、磨いて、うがいして、歯ブラシを洗って所定の場所に置く・・・。歯医者さんにいったあとは、磨き方に気をつけるかもしれませんが(^^;)、ほとんど自動化されていませんか? 残り20%のうち、15%は(これもテキトーな数字ですが)意識的な行動です。それをしなくてちゃいけない、した方が良い、と思って行う行動ですね。飲み終えたペットボトルを洗って回収ボックスに入れるのは、多分無意識ではなく、「そうした方がいい」と思ってやっているのでしょう。 この「無意識の行動」と「意識しての行動」を左右するのは、「情報と知識」だと思います。特に"その行動と結果のつながりを見せる"情報や知識が本人にとって「意味」を持ったとき、つまり「気づき」があったとき、「腑に落ちた」とき、行動が変わるのではないか。 ペットボトルのリサイクルがどういう意味があるのか、それがわかって初めて進んで回収ポイントに出すようになるでしょう。米国で喫煙と健康への害に関する情報が普及した結果、大きく喫煙率が減少したのも、「無意識だった行動が、実はどういう意味なのか、そのつながりが見えた」結果だと考えられます。 最後の5%?が、「自分としては絶対にこうしたい」というものかもしれません。喫煙の害は十分にわかっているけど「それでも吸いたい」、というのもそうなのかな? これだけは譲れない、というようなものがそれぞれの人にあるのだと思います。こだわりというか、価値観というかわかりませんが・・・。 「環境は大切ではない」とこだわっている人がいれば、その「価値観」を変えてもらう必要は多分にありますが、多くの人は「なぜ環境が大切か」さえわかれば、「大切だよねぇ」と思うと思います。そういう意味では、あまり「価値観を変える」ことをターゲットにする必要はないのではないか。 そして上に書いたように、「価値観」に左右される「行動」って、ほんの一部なのではないかなぁ、と思います。そして「価値観」自体の曖昧さと変容の難しさを思うと、そのまえに「無意識の環境にやさしくない行動」「意識してやっている行動だけど、実は環境にやさしくない行動」を変える方が先ではないかなぁ、効果が大きいのではないかなぁ、と思います。 もうひとつ。自分の経験から「価値観の問題もなく、わかってもいるけど、それでもできないこともある」と思っています。自分の経験とはマイ箸のことなのですが、私はマイ箸を使い始めてまだ半年ぐらいです。 もちろんその前から、環境問題についてはある程度わかっていて、割り箸の様々な意味を理解しており、「使わない方がいい」と自分では思っていました。 でも、なかなか自分では使えなかったんですね。持ち歩いてはいましたが、特に人と一緒のときにはなかなか取り出すことができませんでした。ためらい、気恥ずかしさなどがあったのだと思います。そして同時に、割り箸を割るときに後ろめたい思いも感じていました。 何がきっかけで「臆面もなく」?使えるようになったかというと、去年の夏に家族で能登半島に旅行に出かけたときのことでした。輪島のあたりで100 円ショップに寄ったときに「家族のマイ箸、買おうか」ということになったんですね(いま思うと、せっかく輪島に行っていたのだから、100円ショップよりマシなお箸にすればよかったと思いますが )。 旅行の間、家族全員でマイ箸を使っているうちに、以前のためらいなどは消え、自分のお箸の快適さがわかってきました。ご飯粒もつかないし、お醤油で汚れないし。それ以降、一人でも人と一緒でも(忘れなければ)自分のお箸を使うようになりました。 その経験から「わかっていても踏み出せない」ってこと、あるんだよなぁ、と思います。だから「環境やっているのにあの人は割り箸を使っている」というような非難は、私にはできないよなぁ、と思います。 ただ、ためらいや踏み出せないところを乗り越えやすくする工夫はできるでしょうね。私の場合のように、「みんなでやれば・・・」というきっかけなど。 それに割り箸を使わないということは、森林破壊やゴミ問題を少しでも軽減するための数多くある方法の1つです。割り箸は使うけど、裏紙は無駄にしていないよ、というならそれでもいいのかもしれない(少なくとも何もしていないよりずっといい)。 「機が熟す」ということ、日常の行動の変化でもあるんじゃないかなぁ、と思います。ただ、機を熟させる刺激は意識的に。いろいろな情報にふれたり、他の人がやっていることの話を聞いたり、自分の日常の行動をちょっと客観的に見てみる、とか。 私がこれまで講演などでお喋りして、「知らなかった。今日から変えます」と感想をいただいた例がいくつかあります。 そこでの「機を熟させる刺激」になった話というのは、「ペットボトルのリサイクル工場に行ったら、作業員がベルトコンベヤーの上にかがみ込んで、ひとつずつラベルを取っていた」という自分が実際に見た話や、「暖房付き便座を1日つけていると、ヘヤドライヤーを 30分つけっぱなしにしているのと同じ量の電気を使っている」という、データを身近な例に置き換えた話などです。 たとえばこういう話を聞いたり、自分でいろいろ知ったりしていくうちに、リサイクルにも熱心になり、省エネにも気をつけるようになり、買う物もこれまでと違う基準で選ぶようになり・・・となってきたとき、遠くから見れば「あの人は価値観が変わったね」と見えるのかもしれません。 自分の考えていることを書いてみましたが、まだ"考え途中"です。
 

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