エダヒロ・ライブラリーレスター・R・ブラウン

情報更新日:2007年11月08日

人間のための都市設計

 

レスター・R・ブラウン

数年前、テルアビブのホテルから会議場へ車で向かっていた私は、自動車と駐車場の圧倒的な多さに目を奪われていた。半世紀前の小さな開拓地から、約300万人の人口を抱える都市へと成長を続けているテルアビブは、自動車時代と共に発展してきた。私はふと、公園と駐車場の比率は、都市の住みやすさを表すのに最も適した唯一の指標かもしれないと、このとき思った。つまり、その都市が人間と車のどちらを重視して設計されているのかを表すのだ。

世界中の都市は苦境に立たされている。メキシコシティ、テヘラン、バンコク、上海、そのほかにも何百という都市で、日々の暮らしの質は低下している。大気汚染のひどい都市のなかには、呼吸することが、日に2箱のタバコを吸うのと変わらないようなところもある。米国では、通勤者が、渋滞に巻き込まれて身動きが取れず、ただ座って過ごす時間が年々増えてきている。

このような状況に対する動きとして、新しい都市生活が現れている。現代都市が変革をとげた例の中で特に注目されるのはコロンビアのボゴタで、1998年から3年間エンリケ・ペニャロサが市長を務めたときのことである。市長に就任したペニャロサは、車を所有する30%の人々の生活がどうすれば向上するかではなく、大多数を占める自動車を持っていない70%の人々のために何ができるか探ろうとした。

ペニャロサは、都市が子どもやお年寄りにとって快適な環境であるなら、すべての人々にとってもそうであるということに気づいていた。「人間のために設計された都市」というビジョンに従い、市長はわずか数年で都市生活の質をすっかり変えてしまった。

市長のリーダーシップのもと、ボゴタ市は歩道を駐車禁止にし、1,200の公園を造成または改修した。バスを基本とした高速輸送システムの導入は大成功をおさめ、何百キロもの自転車、歩行者専用道路を建設し、ラッシュアワーの交通量を40%削減した。さらに、10万本の木を植え、地域環境の改善に地元住民らを直接関わらせた。こうした施策により、800万人の住民の間に市民としての誇りが芽生え、動乱のコロンビアにあるボゴタの街中をワシントンDCより安全なものにしたのである。

エンリケ・ペニャロサは「特に公園など、公共の歩行者用スペース全般の質が高いことは、真の民主主義が機能していることを示すものである」と述べている。「また、公園と公共スペースは民主主義社会において重要な場である。なぜならそこは、人々が対等な立場で会うことができる唯一の場所であるからだ。……都市にとって公園は、水の供給と同じく、物理的、精神的な都市の健全さを維持するためには、絶対欠かせないものである」とも述べている。

しかし、多くの都市では公園はぜいたくだと見なされており、予算にもこのような考え方は盛り込まれていないと指摘する。対照的に「車のための公共スペースである道路には、子どものための公共スペースである公園とは比べものにならないほどの資源が投入されており、予算削減の幅も小さい」点を挙げ、「子供のためのスペースよりも、車用のスペースが重視されているのはなぜなのだろう?」と問いかけている。

現在、世界中の政府の立案者たちは、車のためではなく、人のために都市を設計する方法を試行錯誤している。自動車は移動の利便性を保証し、主に農村部ではその足となる。しかし、都市化が進む世界では、自動車と都市との間にはそもそも矛盾が存在する。

自動車はその数が増えると、ある時点を境に移動の利便性ではなく、身動きの取れない状態をもたらす。渋滞になると、時間とガソリン代の無駄が増え、経済的な損失を直接被ることにもなる。また、自動車を主な原因とする都市の大気汚染により、数えきれないほど多くの人命が失われている。

車中心の都市が払う代償はほかにもある。それは、自然界との触れ合いが奪われるという精神的なもので、「アスファルト・コンプレックス」と呼ばれている。
人間には自然と接したいという欲求が生まれながらにして備わっていることが、次々と証明されている。生態学者も心理学者も以前からこのことを認識していた。
ハーバード大学の生物学者、E・O・ウィルソン率いる生態学者のチームは、「生命愛の仮説」を打ち立てた。これは、自然との接触が奪われた人は精神的な苦しみを負い、こうした接触の喪失によって、幸福感が目に見えて減退するという主張である。

近代以降ずっと、ほとんどの国――とりわけ米国――の輸送分野への予算配分は、幹線道路と一般道路の建設・維持管理費に大きく偏ったものだった。しかし、より暮らしやすい都市をつくり、人々が望む交通の利便性を生み出すには、鉄道やバスを基盤とする公共交通機関や、自転車利用を後押しする設備の開発に重点を置いた予算を組めるかどうかが鍵となる。

喜ぶべきことに、変化の兆し、すなわち車ではなく人のために都市を再設計しようという動きが、日常的に見受けられる。米国発の勇気づけられる変化が一つある。全米の公共交通機関の利用者数が、1996年以降、年2.1%の割合で増加しているという。

これは、人々が徐々に自動車の利用をあきらめ、バスや地下鉄、路面電車を使うようになってきていることを示している。ガソリン代の上昇が、「車から降りてバスや地下鉄、自転車を利用しよう」と、さらに多くの通勤者の背中を押している。

中国政府が自動車中心型の交通システムの推進を決めた際、中国の著名な科学者らによるグループはこれに異議を唱えた。彼らはこう指摘する。「われわれには、自動車に必要なスペースを確保し、同時に国民を養えるだけの土地はない」と。中国がそうであるなら、インドをはじめとする人口密度の高いほかの多くの途上国でも同じことが言える。

また、ほかの都市に比べ、格段にいい形で成長計画を打ち出している都市もある。移動の利便性やきれいな空気、そして身体を動かす機会を提供する交通システムを作ろうというのだ。渋滞や大気汚染をもたらし、運動する機会がほとんどないような都市とは雲泥の差である。ジョージア州アトランタのように、労働者の95%が通勤手段を車に頼っている都市は苦境に立たされている。

対照的にアムステルダムでは、通勤に車を利用する人は40%にすぎず、35%が自転車か徒歩、25%が公共交通機関を利用している。コペンハーゲンの通勤形態もアムステルダムとほぼ同じ。パリでは、通勤手段を車に依存している人は全体の半分弱である。これらのヨーロッパの都市は歴史が古く、道幅も狭いが、それでもアトランタより渋滞は格段に少ない。

はたして、車依存型の都市は、さまざまな通勤手段を提供する都市に比べると渋滞が多く、移動の利便性は低くなる。自動車は個人の移動の利便性が大きな売りだった。ところが蓋を開けてみれば、その自動車こそがすべての都市生活者を身動きひとつ取れない状態にし、お金持ち、貧しい人を問わずあらゆる人の移動をはばんでいると言っていいだろう。

現在多くの途上国で行われている長期的な交通戦略は、いつかは国民の誰もが車を持てるようになる、ということを想定したものだ。しかし、石油埋蔵量が無尽蔵でないことは言うまでもなく、自動車のために利用できる土地にも制約があることを考えれば、残念ながらこうした戦略はおよそ現実的なものではない。これらの途上国が交通の利便性を高めるには、公共交通機関や自転車の利用を後押しすることが条件となるだろう。

 

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