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海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたもの(3) 社会福祉協議会・片桐一彦さん

2020年07月19日

海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたものをお伝えしたく、今回は社会福祉協議会・片桐一彦さんのお話を紹介します。

[enviro-news] 2747、2749 で、海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたものをお伝えしたく、海士町の漁協・藤澤裕介さんと、海士町の玄関口に建つマリンポートホテル海士の経営に携わっている青山敦士さんのお話を紹介しました。

海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたもの(1) 漁協・藤澤裕介さん

海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたもの(2) マリンポートホテル海士・青山敦士さん

今回は、海士町の「ビジョンづくり」のプロセスから生まれたもの(3)として、社会福祉協議会・片桐一彦さんのお話を紹介します。片桐さんもビジョンづくりチーム「明日の海士をつくる会」(通称:あすあま)のメンバーのお一人です。


社会福祉協議会・片桐一彦さん

東京生まれの片桐さんは、24年前に海士町にIターン者としてやってきました。2007年には、社会福祉協議会の日本で一番若い事務局長に就任。「島で生まれて、島で死ぬ。そんな当たり前のようだけど難しくなってしまっていることを、なるべく早く実現できるように頑張りたい」という思いで福祉に関わっておられます。あすあまで身につけたループ図を自分の仕事でも活用されていたことが印象に残っています。

片桐さんはあすあまを振り返って、こう語ります。
「海士町は、これからは行政主導というより地域住民が社会参加をしなければいけない。事業者やいろいろな人たちが「じゃあ、どうするんだ」と議論する場が必要だと思っていました。そこに、まちのいろいろなところで活動している人間がつながって未来を語れたということは、非常に意味があったと思います。特に僕は福祉を軸に参加させてもらっていますが、もっともっと幅広いつながり、たとえば教育や観光などいろいろな分野の人々とつながり、ひとつのコミュニティをみんなで考える機会があったということは大変大きな意義がありました」。

そういったつながりの中で、人づくり、福祉の人づくりの取り組みも広がりました。「福祉学習」と呼ぶ取り組みも、ただ車いすの使い方を習うとか、高齢者を理解するということだけではなく、「生きる」という大きなテーマ、その中で「暮らす」というテーマを中心に、産業や教育の分野の人たちと一緒にやることができるようになったといいます。

たとえば、観光名所である隠岐神社に車椅子の人がいたらどうする?というように、観光もテーマにして「豊かに暮らす」という学習を展開できたそうです。海士町の福祉学習は町外でも注目されているそうですが、施設の中での福祉をどうするというよりも、「豊かに暮らす」という福祉のビジョンにシフトできたのも、あすあまで「ありたい姿」をいろいろなメンバーと議論したことがきっかけになったといいます。

また、海士町には隠岐島前高校と連携した公立塾である「隠岐國学習センター」があります。この学習センターでは、単なる受験勉強だけでなく、「じぶんと社会・地域との重なりを探り、それを夢として育てていく授業」、通称「夢ゼミ」もやっています。

片桐さんは2年前に、この学習センターで1年間通して、高校2年生の子たちに「福祉ゼミ」をやらせてもらったそうです。福祉ゼミに参加した生徒たちは自分たちで、「どういう福祉が必要だろうか」といろいろ考えたり話を聞きに行ったりして、海士町で行っているいろいろなイベントに、高齢者や障がい者、乳幼児がなかなか参加できないということを知りました。そこで、イベントでキッズルームや休養所を作ったり、高齢者が来るための補助をするなどの活動をしてくれたとのこと。「その子たちの中には、福祉に関連する大学に進学した子もいます」。

また、福祉人材を確保するための活動にも、あすあまの仲間の取り組みが刺激になりました。あすあまのメンバーには観光協会や学習センター、町外からの参加者向けに研修を行っている会社のメンバーなどもいて、「人材を呼び込む」取り組みをいろいろと繰り広げています。

そんな仲間に学んだり、一緒に考えてもらったりして、2017年5月に、新しい福祉の拠点ができました。「チェダッテ」という名前の、福祉関係に従事している人、従事する予定の人向けのシェアハウスです。シェアハウス4部屋のほか、簡易宿所(交流スペース兼)もあり、福祉や地域の交流、学びの場として活用されています。「ちぇだって」とは海士町の方言で、「みんなで」「こぞって」という意味です。

チェダッテができるまでの背景を片桐さんはこのようにウェブサイトに書いています。あすあまで身につけたループ図もしっかり活用されています!
http://www.acsw.sakura.ne.jp/chedatte/

~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~

ループ図等はこちらからご覧下さい。
http://www.acsw.sakura.ne.jp/chedatte/2017/04/post.html

海士町は様々な挑戦や施策を行っていますが、例に漏れず人口減少が大きな課題です。特に福祉の支え手不足は、島民の生き方に関わってきます。島で暮らせなくなった人(高齢者)が島外の施設に移住することが多くなり、さらに人口が減少する負のループが発生します。

海士町の福祉人材を確保するために、3つのことをやってきました。1つは福祉学習を充実し、未来の担い手として人材を育成すること。もう1つは介護教室や地域福祉を推進し島民の介護力をつけること。最後の1つは、島外で島の暮らしと福祉をPRし、Iターンを確保することです。

海士町にはもう一つ大きな課題があります。それは住宅不足です。島内でも核家庭が進み、子どもは町営住宅に住むことが増えています。また、Iターン施策により多くのIターンが海士町に着ますが、住宅不足のために移住を諦める人もいます。年度途中で移住を希望する人の多くは、住宅不足のために移住につながりません。

島で暮らしのいいところは、おすそ分けや魚や野菜の差し入れだと思います。しかし、島に住んだから魚が自然にもらえるわけではありません。地域住民の方と付き合い、一緒に色々な活動を行うことで、差し入れがくるのです。町営住宅に移住し、仕事と家の行き来だけの生活を送ると、島の魅力を堪能できません。特に福祉の従事者は業務の忙しさから、このようなケースに陥ることが多いのです。

そこで思いついたのが、地域交流型の福祉職専門シェアハウス構想です。そこに島外からの福祉移住者を呼び、島の魅力でもある地域交流を行い、それを発信することで更なる移住者を生む。それがこのループ図です

行政にプロジェクトを説明し、物件探しを行いました。条件は
○地域密着型で畑などが近くにあること
○シェアハウスになるだけの部屋数があること
○古民家で自分達がリノベーションできること
○行政に貸与もしくは譲渡してくれること
最高の地区(北分地区)に 最高の物件が見つかりました。健康福祉課長が所有者に交渉 貸与と改修の契約を結びました。設計者も決まりました。海士町の新たな福祉拠点 発信拠点としてどのような改修をするか協議を重ねました。どのような施設にするか 数々の打ち合わせ 島内外の人とワークショップを行いました。

~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~

改修後、福祉従事者雇用促進拠点施設として海士町社会福祉協議会が指定管理を受け、運営をしています。

「人を呼ぶときには、こんな福祉をしてますよ、ということももちろんいいますが、もっと都会にはない"人とのつながり"をベースに福祉の入り口をつくって、「地域の中でこういう暮らしを残したいから、僕たちは福祉をしているんですよ」っていう点も伝えています。だからって人がたくさん増えたわけではありませんが、今、海士のサービスが現状を維持できていて、今でも月に1回くらいは「まだ募集ありますか」と言ってもらえるようになったのは、このおかげだと思います。あすあまのメンバーにいろいろアドバイスをもらったことが本当に役立っています」。

あすあまで、さまざまな角度から海士町の「ありたい姿」を議論していたとき、片桐さんは「いきいきと死ねる島にしたい!」と熱く語りました。

片桐さんは町の福祉のコンセプトとして、最初は「生涯現役の島」、「死ぬまで働ける島」をめざしたそうです。ところが、途中からそれがしっくりこなくなったといいます。島の人たちはもともと、そういう生き方をしていて、「あんたたちに言われなくても死ぬまで働くし」という現実がわかったのです。

そこで、「ひとりひとりの夢を叶える福祉」にシフトしました。「私は死ぬまでにこれをやりたいんだよ」ということを何でも言ってもらって、ひたすら叶える。「東京に行きたい、皇居に行ってみたい」という人がいると、「じゃあ、そのためにリハビリしてみよう」「そのためにお金が必要だよね」と、最終ゴールをある1人の夢にしてひたすら叶える福祉を展開していきました。

海士町では今、マリンポートホテル海士というホテルを大改修しています。改修という話になったとき、「私はホテルの前身の緑水苑という国民宿舎のオープニングスタッフだったんだ。ホテルを改修すると、緑水苑のあとがなくなっちゃうから、最後にあそこに行ってみたい」というおばあさんがいました。

あすあまメンバーでホテルに関わっている青山さんにその話をしたら、「受け入れます」ということになって、昔の事務所だった場所におばあさんを連れて行くことになりました。その話をしていると、デイサービスの他の利用者さんたちも、「俺も昔あそこに関係があった」などの話になって、最終的にはそのおばあさんを中心に「みんなでホテルに行こツアー」になったのです。

「青山くんの計らいだと思うけど」と片桐さんはいいます。みんなを受け入れてくれたホテルの従業員さんが、「新しいホテルができたら絶対にみなさんを呼ぶので元気にしててくださいね」と言ってくれた。みんなは「そんなことしてくれるんだったら、次のホテルができるまでまた頑張れるわ」と。こういうことを1つずつやろうとしているそうです。

「面白いことがあったんですよ」と片桐さんの話はつづきます。「うちの入居者のおばあさんたちが、去年たくさん大根を差し入れてもらって、干し大根を作ったんですよ。けっこうたくさんの干し大根ができあがりました。ふつうなら僕たちの施設なので、厨房に持って行って皆さんの晩御飯になるんですけど、突然おばあさんたちが一堂に会している場に呼び出されました。

「あんた、夢を叶えてくれるらしいな」というんです。「ここに干し大根があるんだけど、施設で買ってくれ」。自分たちが作った干し大根を買ってくれ、というのです。「僕たちが買って、あなたたちが食べるんですよね?」といいながらも、結果的に買ったんです。3000円ぐらいだったかな。

このお金をどうするんですか?と聞いたら、「このお金を使って、隣の知夫里島に遠足に行く」というんです。それで、「そのツアーを組んでくれ」といわれて、おばあさんたちはそのお金を使って知夫里に行ってソフトクリームを食べて帰ってきた。そしたら、そのおばさんたち、「片桐に何か売れば、買ってくれる」「だったら次は何を作る?」という話で今盛り上がっているんですよ。

「仕事を作る」というよりも、夢を叶えるためにこういうことをしたらいい、となり、自然にそこから自分たちが元々やっていたことにつながり、そういうものが復活していくんだなあと思いました。今、僕たち福祉社会協会は、「とにかく1つの夢、1人の夢を叶えます」ということを軸にしています。そして、それを繰り返していって、「最期にいい人生だった」と思えるのが、「生き生きとして死ねる島」なのかなぁと思っています。

でも、夢ってなかなか語ってもらえないじゃないですか。その時にある職員が考えたのが、七夕の短冊です。これにはみんな必ず夢を書くので、利用者さんの前に全部ばーっと並べて、「私たちがこれを全部叶えます」といった。そして、「じゃぁ、これとこれはセットにできるね」みたいな形で話をしています。

「自分がまえに働いていた商店に行ってみたい」という人には、「そこに段差があるから、じゃぁリハビリしなきゃね」というと受け入れてくれる。この人はもともと小料理屋の女将さんだった。じゃぁ、小料理屋を開こう、と、そのために店を作ってみたり。

去年亡くなった方で、もう延命ができないといわれて、島に帰ってきて、うちの施設に入ったおじいさんがいます。延命ができなくて帰ってきたなんて知らなくて、受け入れたんです。元気なおじいさんだったので、椅子を作ってもらったり、いろいろ仕事をやってもらっていました。ところが、やっぱり体がどんどん悪くなってきて、診療所に「私はもう延命しなくていいって島に帰ってきたんだけれども、もっと生きたい」と訴えるようになったんです。

しかし私たちレベルではどうしようもできない状態になっていき、だんだん食べ物が入らなくなってきました。でも、元々漁師さんだった人なので、お刺身だけは食べるんですね。そうしたら、うちのデイサービスのプログラムが毎日ずっと「釣り」になる。最後的には僕ら職員が釣りに行って、「今日の刺身はこれ」「今日の刺身はこれ」と、毎日毎日刺身。結局最後のとろみ食まで刺身で、亡くなったんですけどね。その人の夢を一緒に追いかけていることがすごく楽しかった。

あすあまで「生き生きと死ねる島」という構想を話して、みんなとも議論して、職員と取り組みを進めるようになって、そういうエピソードが少しずつ出てくるようになりましたね」。

今後について片桐さんは、「これから人口が減っていく中で、全国より先に海士町に課題が来ています。決して楽な道ではないと思いますが、すべての業界が全部つながっていることなので、あすあまの後継として、みんなと相談してもいかなければと思っています」といいます。

「今の人たちが動かなければいけない時代になり、あすあまメンバーはみんなで動いているなという感じがあります。決してこの楽な道ではないと、みんなが思っていて、たまに集まって話を聞くと、ちょっとほっとしたりする部分もある。実際にみんなで動いているという感じがします」。

~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~

このお話をオンラインでいろいろとお聞きしながら、毎月海士町に通って、「あすあま」会議や、そのための事務局会議で深夜までみんなで議論していた頃を懐かしく思い出しました。あの数ヶ月のプロセスが、確実にいろいろなものを生み出す土壌となっていること、関わらせてもらった身として本当にうれしいなあ!と思います。

ヒヤリングの最後に片桐さんがにこにこしながら、「エダヒロさんの本に人生救われたんですよ」と、この本を見せてくれました。少しでも何かのお役に立ったのであればとてもうれしいなあ。

『人生のピークを90代にもっていく!~折り返し地点から「死ぬまでハッピーな人生」をつくる』


大きな変化のまっただ中にあることはわかっても、先の見えないこの時代ですが、片桐さんがそうされてきたように、「大事なことを大事にし続ける、考え続ける」ことが何があってもぶれない羅針盤になってくれるのだろうと思います。

 

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