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石巻の現在~「石巻の女性達からのメッセージ」その6

2016年08月10日 |コラム
石巻の現在~「石巻の女性達からのメッセージ」その6

4年ぶりに石巻を訪れました。3.11後のゴールデンウィークに12日間緊急支援活動を展開していたJENのお手伝いに入り、その後も何度か支援に行っていました。昨年10月にJENが現地事務所を撤収した後は、自分たちで団体を立ち上げてがんばっているメンバーが迎えてくれました。石巻の現在の様子、そして、被災された女性たちからのメッセージをお届けします。

当時、すべてがなぎ倒されていた河口付近も暮らしや経済活動がふつうに営まれている様子です。立派な復興住宅もいっぱい建っていました。大きな建設中のものもあります。けれど、でもまだ仮設住宅で暮らしている人も多いとのこと。

ブログに写真をアップしたので、あわせてご覧いただけたらと思います。
http://www.es-inc.jp/edablog/2016/eda_id008552.html

見渡す限り"家の跡"しかない広大な地に言葉を失ったあの場所は公園になるそうで、今は夏草が生い茂っています。

3枚目の写真は、「ここまで津波が来ました」というポールです。下に立っている人を見ると、どれほど津波だったのか......身が震える思いがします。

写真にも載っている元JENの杉浦さん・新井さんは、「震災前のファーストステージ、震災後の辛かったセカンドステージを超えて、サードステージに進んでいこう!」と「サードステージ」という一般社団法人を立ち上げて、被災者の自立支援や、震災後支援の入りにくかった牡鹿半島でのいろいろな取り組みを進めています。
http://thirdstage2016.wixsite.com/ishinomaki

夜の会食には牡鹿半島で活動している方々のほか、以前からメールニュースでも紹介させていただいている「石巻の女性たちからのメッセージ」の聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんも来てくださって、みなさんの取り組みや大変さなど、いろいろなお話をうかがうことができ、考えさせられました。

千葉さんの「女性たちからのメッセージ」の続きをお送りします。

~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~

5)Eさん(60代)                    2016年2月21日 

3.11の日は看護師として勤務していました。小児科の診察室にいて、カルテを持って廊下にいました。大きな地震で売店の物が飛んでいました。「はやく止んで!」と叫ぶ自分。小児科の診察室には父親と子供がいて診察台の下にもぐっていました。津波なんて、ここまでこないと思っていました。予想などまったくしていなくて、何も心の準備がなく対応できません。子供を迎えに行った同僚が、「大変なことになっている」と教えてくれました。3階へ入院患者を上げました。波が見え、車が流されるのを見ました。
電気が使えず、ラジオをつけました。自家発電機が壊れました。いろいろ自衛隊に助けてもらいました。近くの踏み切りがいつまでもカンカンとなっていたのを覚えています。毛布をかぶって一夜を過ごしました。次々とけが人が運ばれ、消毒だけで手当てをしました。泥だらけの人たちに、毛布と病衣を着せ、売店の食べ物でしのぎました。寒かったです。
次の日自宅へ向かいましたが、水が抜けていませんでした。火事も見ました。水の中を杖でついて大丈夫な場所を歩いている人の後をついていきました。知り合いがおにぎりを作ってくれ、腰まで水に浸って自宅へ。近くの高校に避難した母を迎えに行き、女の子二人と娘と他の家族と一緒に暮らし始めました。冷蔵庫に食べ物があり野菜も洗わず食べました。一つの鍋でいろんなものを作り、太陽光発電でお湯を沸かしました。孫が一か月の赤ん坊だったので水が必要で、湯たんぽも必要でした。同じ町でも、地域で天と地の差があり、大丈夫だった家の人に風呂に入れてもらいました。
でも、ロウソクを灯して、夜はちょっとした宴会のようで、苦しいときは笑うんですね。バケツできれいな水を汲んできたり、みんなが力をあわせました。気持の切り替えをし、楽しいことを思い出すようにしました。非常時に心が開かれる経験もしました。普段は話さないようなことを話したり。
ガソリンやじゃがいもを分けてもらいました。一か月後職場へ復帰しました。病院が車で迎えに来てくれたり、バスで行ったり。地下室のカルテは水でぐしゃぐしゃ。パソコンだけでなく紙でも作って高い階にあげておけばよかったです。薬が切れてしまうおそれ(糖尿病など)がありますから、余分に薬があったほうがいいですね。
 自分の家族が一番大事で、守りたいたいと思いました。地震の後は、何が起こるか予測がつかないからとにかく逃げること。せわしい毎日の今、人とのつながりと出会いについて考えます。家族を支えるので精いっぱいですが。病気の人を病院にまかせっぱなしにせず、在宅ケアも選択肢に入れてほしいと願うこのごろです。医者は、医者自身の年に合わせて患者を診る気がします。高齢の医者は年寄りの気持ちで診るけど、若い医者は、まだまだ生きる自分の基準で患者を診ます。医者は看護師を同席させない今。パソコンの事務処理をする人と医者だけで診る。看護師が直接、患者の話を聞くことも大切じゃないの?患者の症状は、紙で伝えきれるものじゃないんだから。

6)Fさん (30代)                  2016年2月27日3.11は歯科医院で仕事中で、4日目に自宅へ戻りました。病院では、水の中を歩いて水や食料の調達をしました。山を通って自宅へ帰って家族の無事を確認後、また職場へ行きました。全部で1週間ぐらい病院にいました。電気が戻ったら患者が来るかもしれないからと、カルテの準備をして仕事を優先しました。自宅では7人の親戚が避難してきて共同生活でしたが、避難所じゃないので水や食料がもらえませんでした。隣の人の井戸水や近くの湧き水で助かりました。ボランティアの人から物資をいただきました。反射式ストーブや湯たんぽが役に立ちました。自宅にいてもよかったのですが、職場の同僚がいい人達なので自主的に職場で生活させてもらいました。石巻の他の地域では、あまり震災の影響を受けていない場所もあり、いい生活をしていて、そのギャップに驚きました。「何だろう? あっちは電気がついているのに、我が家はいつ?自分は着の身着のまま、髪もぼさぼさ」。せつない気持ちでした。同じ市内でも、どこにいるかで状況が違うんですね。阪神・淡路大震災(1995年)をテレビで見ていて実感があまりありませんでした。水が電気がないってどういうこと?と思っていました。あたりまえの生活が大切なんですね。津波がきたら逃げることが大事です。生き抜くことです。明日が確実にあるかわからないので、後悔しないように、誰かに伝えたいことがあったら伝えたいし、したいことはしたいです。

6歳の時、身近かなおじいさんが亡くなって、死について考え始めました。生きたくても生きれない人がいるんですね。高校の同級生が亡くなった時や叔母の死も影響しています。「いつどうなるかわからない」と叔母が言っていたのを思い出します。子供のいない叔母にとって自分が子供代わりでした。彼女の言葉を生かしたい。今は、私の支えは家族と知人です。

バイオリンの先生の母親が、いったん高台に逃げて助かっていたのに下へ再び戻って亡くなりました。5日前にしゃべったばかりなのに。「手料理を食べるといい音がでる、だから大切な人のためには、お料理を作ってね」と言われました。バイオリンやピアノで、こんな曲をひきたいというものがあって、レッスンは楽しいです。できない曲ができるようになる生きがいや喜びを感じ、幸せ探しですね。このごろは脱走する夢をみます。人見知りで幼稚園ではいじめられました。自分はみんなよりできないという自意識がありました。音楽は趣味で習いなさいと母が言っていました。私は一人で目立ちたくないし、小さい世界の自分で満足なんです。老人施設で弾いてみたいです。7.8歳ぐらいの子供のころの夢がかなって、今はバレエ、ピアノ、バイオリンを習っています。3.11の前から続けていた音楽が支えになり、音楽は自分の癒しであり、自己主張の方法です。生きなくちゃ!  3.11があったらから出会えた人、つながりがめぐり巡っていて、感謝しています。自分が生きていないといけない。自分のために、夢をかなえる人生を送りたいです。

7)& 8)Gさん(70代)とHさん(60代)
二人一緒に  2016年2月28日Gさん: 生まれも育ちも牡鹿半島の鮎川。お互いみんな知っている地域です。カッコつけてもしょうがない所。あの日は、消防の大きいサイレン、「6mの津波がくる」とはっきり聞こえました。位牌3人分を持って、玄関の鍵を閉め、重たいサッシの窓も閉めて逃げました。

 黒い湯煙のような波が見えて、まさか自宅が無くなるなんて思いませんでした。この町では、5組の夫婦が亡くなりました 寝たきりだったり、船を見にいった夫を待って道路に座っていたり、腰をぬかした妻を迎えに行ったり、2階に避難していたりして。郵便局で働く4人も命を落としました。私は、川を伝ってくる津波のイメージしかなかったです。        山からの澤水や川の水でしのぎました。川に流されてくる車も見ました。すっかり姿を変えた自宅には、知らない車がつっこんでいました。廊下だけが、舞台みたいに残っていました。ガラクタだけの物置きも残っていました。3.11の夜は、山のテントで夜を明かしました。それから役場での避難生活が始まりました。顔見知りの人たちがいて、毛布を借りたり、模造紙を巻いたりして寒さをしのぎ、狭い部屋がぎっしりでした。横に男性がいて、寝るのにはちょっと抵抗があり、女性のニーズがありますね。助かった家から必要な食料や物をもらったり、冷蔵庫にあった固い魚の肉や養鶏所の卵を食べました。トイレを消防署員が処理してくれました。親戚が持ってきた食べ物を自分だけ食べれないし、下着もいただきましたが、自分だけもらうのは気がひけました。

 四十九日。霊が出ていくように窓を開けておきました。

高校の3年間だけ石巻市内に住みました。中学を卒業した私を、高校に入れないと母は言いましたが、親戚は「教育は大切だ」と説得してくれました。寮に入り共同生活で楽しかったです。おにぎりを作ってもらって、みんなでひばりの海岸へ遊びにいった思い出があります。みんな優しかったです。私の町は若者が出ていく漁業の町です。被災後、私の息子が迎えにきたけど、みんなが私を引き止めました。震災前の2011年1月、私は居眠り運転で、山際の崖に落ちて、桜の苗木に引っかかって助かりました。廃車。

夫はすっと前に海に転落して死亡し、69歳で未亡人になり、認知症の母を抱えていました。一人っ子だから、人と話すのが好きで、性格が明るいと思います。船乗りの父は優しかったのですが、母は厳しく不器用な自分にきつく当たりました。町の人は、みんな親切で優しく、いたわってくれました。宝くじがあたったらどうしようなんて考える、このごろ、オレオレ詐欺の電話の相手と長時間話したり、保険勧誘の人にもおしゃべりして付き合うの。家が流されて、これ以上悪いことはなくて、これ以下はないから、毎日を忙しく過ごしています。ダンベル、川柳、カラオケ、ラジオ体操。仮設住宅での催し物に出ています。 今は娘と同居です。けんかもします。私は、あとづさりできない性格なのね。2016年3月に新居ができ、一人暮らしへ。土に触れる草花のある暮らしが楽しみ。優しさを感じる心が大切ではないでしょうか。 

Hさん:命があれば何とかなります。近くのスーパーで50人以上も亡くなりました。津波がくるとは思わないものね。大きな揺れの後、すぐに高台にある幼稚園に、孫を迎えに行きました。雪が降っていたので運転したくないと思っていたら、「下へ戻ったらだめ」と他人の言うことを聞いて幼稚園に留まりました。これがよかったのです。サイレンはよく聞き取れず、「何を言ってるの?どこへ?どんなこと?」って思いました。親が迎えに来れない子供たちは別の部屋にいました。 すべて流された自宅跡には、氏神だけが残っていました。桜が咲く4月18日に、内陸の実家へ行き、40年ぶりに兄弟と共同生活をしました。お互いに気つかうかもしれないので、実家近くで家を借りました。けじめです。でも実家は大切だなぁと実感しましたし、身内に助けられました。まさか、こうして実家の世話になるとは思ってもみなかったです。            今は、楽しいことを探し、ささいなことも幸せ。振り返って、よくここまできたと自分をほめて、深く考えないようにしています。余裕がないし、今しなくてはいけないことが、たくさん。家を新築する時、息子夫婦は津波がきた同じ場所は嫌だと言いましたが、夫は頑固に同じ場所に立て直すといいました。

3.11があったけれど、結果的に命が助かったのだからよかったです。被災者と呼ばれるのがいやですし、みじめな気持ちになります。あわれな気分。自分は幸せです。人と比べてもしょうがないんです。動くと何かが変わります。みんなの話を聞いて、みんなと一緒に生きています。「足るを知る」。上を見てもしょうがない。女性は強い。現在は小学3年生の孫の送り迎えと、6人の食事作り。2世帯住宅で台所が別。食が大切ですね。3.11は春に向かっていく3月だったからよかったと思います。太陽と暮らす生活でした。冷凍庫の魚を食べたり、澤水で米を洗ったり。差し入れのリュックの食べ物をかくれて孫と、そっと食べました。雨水には放射能があるかもしれないと心配しました。

私は4人兄弟の末っ子。小さいころから、他人に逆らわない、反抗しない。私のかしこい生き方上手は、これ。人生は60点でいい。自分の好きなように辺りは回っている気がします。 

9)Iさん 50代                    2016年1月31日

3.11は息子の中学の卒業式でした。地震の後、外出先から自宅のある辺りへ戻ると、どよーんとした空気が全体に流れていました。神社に向かって歩いている時に波が見え、ああダメだと思い、すぐ自宅の2階へ上がり、それから屋根へ。一階の踊り場辺りで波がとまりました。死にたくない! プロパンガスの匂いがして、火がついたら怖いと思いました。息子は、近所の人に逃げろと言いながら小学校へ避難して行ったようです。次の朝、息子が迎えに来ました。夫と連絡が取れず、10日目ぐらいに、彼の職場へ、川の上の橋を歩いて渡って会いに行きました。夫は、私も子供も亡くなったと思っていたそうです。

不変のものはないんです。普通の生活が続くと思っていたけど。自分より大変な人がいます。家はすべてダメになりましたが、物だから考えないようにして固執していません。前を向いて世のために努力したいです。人は完璧ではなく、どんな人にも良いところ悪いところがあります。私は、人がさみしかったり悲しかったりするのを見るのがつらいんです。声をかけずにいられないし、ほっとけないんです。高校のクラスで若い教員が生徒から、からかわれていた時、クラスメイトに「やめて」と言い、会社の上司のパワハラにも「やめて」と言いました。人に気を使うので、時々疲れますけど。

2011年から3年ほど仙台に住み、夫は車で石巻に通勤。後ろめたい気持ちがあって、 手足を伸ばして寝れませんでした。笑顔は強くて、笑顔は人から人へ、うつるんですね。「幸せは自分の心がきめる」、そんな人になりたいです。この町に住む外国人には"石巻のおせっかいママ"と呼ばれているんです。41歳で、ラジオとテレビで英語を始めました。大学へ行っていないけど。英語は人をつなげるし、今は生きがいです。石巻に住む外国籍の友達といるのが楽しい。2016年4月から小学校で英語の補助教員になります。小学校英語指導者の資格も取りました。小学校で読み聞かせもしていて、一歩一歩が道になって、全部つながっているんですね。9年目の結婚記念日が、息子の誕生日。義父母には、夫を産んでくれてありがとうと言いたいです。 

子供のころ、人形遊びやままごとが好きじゃなかったの。ぬいぐるみを抱いて遊んでいるのが好きでした。母親が、服を裁縫して販売していていつも忙しかったので、一人の時間が多くてさみしかったのかも知れません。震災の後、ノミの市に行った時、ペンギンのぬいぐるみと目があって、「自分を連れて帰って」といっているようで、すぐに購入しました。50円。自分はいつも、そのペンギンとおしゃべりをしています。車の助手席にも乗せていると「気をつけて運転して」と見守ってくれています。知人が3人の子供を津波で亡くし、ほっとおけないと思い、毎日、メールで連絡を取りあいました。この知人が、子供を対象に支援活動を始めたので、私もボランティアとして手伝うことにしました。

息子は中学生のころ、震災で亡くなったアメリカ人女性テイラー・アンダーソンさんのご指導を受け、英語スピーチコンテストで二度目も優勝しました。それはテレビの全国放送で流れました。テイラーさんのご両親が設立したテイラー・アンダーソン記念基金の招きで、息子はニューヨークに行くことができました。運動会の昼食時間に、校庭での我が家の昼食にテイラーさんもご一緒してもらったことが思い出されます。亡くなったテイラーさんが使っていたタンスが、知人の紹介で我が家に今あります。タンスを引き取った時、香水の香りがしました。テイラーさんからいつも励ましてもらっていて、自信をもって歩きなさいねと言われているようです。

~~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~~~~~

この最後の方がお話しになっているアメリカ人女性のテイラー・アンダーソンさん(当時24才)は、外国語指導助手として石巻市内の小中学校で英語を教えていた方ですが、津波の犠牲になってしまいました。

ご遺族は、被災した子どもたちに夢を与えたいと、本が大好きだったテイラーさんが教えていた学校に本を送り、「テイラー文庫」ができています。

千葉直美さんが、「テイラーさんからの贈り物 津波の犠牲になったアメリカの先生」という、対訳の小さな本を出されています。テイラーさんや石巻の写真やイラストもあって、読みやすく、しみじみ考えさせてくれる本です。

「対訳 震災の石巻 テイラーさんからの贈り物―津波の犠牲になったアメリカの先生」

そして、もう1冊、震災の絵本も作っていらっしゃいます。
「震災の石巻 井戸水とお父さん」

東日本大震災から5年以上たち、足を運んだり支援をする人も減りつつあります。一般の人でも思い出すことも減ってくるのは世の常ですが、それでも、ときどきでも、大事なこととして思い出したり考えたりしつづけたいと思っています。

 

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