ホーム > つながりを読む > 女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その1)

つながりを読む

女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その1)

2016年02月28日 |コラム

もうじき東日本大震災から5年。

2011年4月~5月に私は10日間ほど石巻市に入り、救援活動のお手伝いをさせてもらいました。そのときにお世話になった方が送ってくださった小冊子の内容をぜひみなさんにもご紹介したく、転載をお願いしたところ、ご快諾をいただきました。何回かに分けてご紹介します。

~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~

女性達からのメッセージ

東日本大震災の被災地宮城県石巻市から2015年10月

はじめに2011年3月11日、東日本大震災は甚大な被害をもたらしました。地震と津波は多くの大切な家屋や建物、財産を奪い、尊い人命を犠牲にしました。宮城県石巻市でも復興と復旧が少しずつ進み、道路工事、工場や会社、店舗の新設と修復、住宅の新築など、街の姿を変えていっています。しかしながら、災害公営住宅の建設、住宅地の土地の造成、高台移転整備は、発災から5年になろうとしているにもかかわらず解決してない問題が山積しています。それでも毎日の生活を送らねばならない人々です。時間は容赦なく過ぎていきます。

目に見えないものはどうでしょうか。震災直後から、被災者と呼ばれる方々は、何を考え、何をどう感じているのでしょう。特に女性達の気持ちはどうなのでしょう。生活の再建もままならず、まだ不自由な生活を余儀なくされている女性達。そんな女性達への被災体験の聞き書を試みました。それは10分間の立ち話であったり、お茶を飲みながらの30分の雑談であったり、きちんと座っての2時間を越えるインタビューであったりしました。3年が過ぎた2014年の3月から記録を始めました。20人です。年齢も生活環境、被災状況も違う女性達です。20人、誰ひとり同じ人生を送っておらず、誰ひとり同じ被災体験をしておらず、また誰ひとり同じ考えや気持ちをもっていません。

20人、一人ひとりがそれぞれ、震災前、震災後の人生を生きる唯一の特別の存在です。彼女達の口から紡ぎだされる言葉から、私達は何かを感じ、何かを未来へ伝えることができればと思います。20人の誰かの人生に共感したり自分を重ねあわせたりできるかもしれません。

1)A.Bさん(60代)
被災から3年経って、やっと希望をまた描けるようになりました。息子(40代)が牡蛎養殖を継ぎ、夏はカフェを開きたいという計画を持っていることを知り、気持ちが前向きになりました。これまで、将来が描けない、見えない、考えられないという状態でしたが、この息子の言葉で気持ちが変わりました。

震災前まで、民宿を経営していました。蔵を改築したもので、長い間の夢が実現したものだったのです。そしてグリーンツーリズムやブルーツーリズムを実践していました。環境問題や自然保護は、自分にとっての大きな関心事で、たくさんの夢があったものです。山、川、海を活用して様々なワークショップやツアーを開催しました。例えば、魚釣りや牡蛎養殖の体験、貝や網を利用した手芸、山の散策等。夫が採ってきた海の物を料理してお客に出し、一緒に食べながら話しをしました。夫は漁業と牡蛎養殖に従事。民宿は津波によって破壊され、夫は養殖の道具や機材、船もすべて流失。

仮設住宅に移りました。震災後、夫は脳梗塞で入院。母が他界。夫は、「負けない」と早朝から海へ出て、新しい船で魚を獲り、牡蛎の養殖を再開。夫は一生懸命働いています。自分も手伝いますが、少し疲れていて休みたい気持ちもあります。息子の望みが、自分を前に進ませています。

2014年3月2日

2)C.Dさん(60代)
震災をたまに思いだします。旧式のストーブにより暖をとり、料理もしました。電気ストーブも併用。徒歩、自転車、車を使い、体力が必要だと実感しました。日ごろから健康に暮らすことが大切ではないでしょうか。駆けつけたボランティアや知人のために、みそ汁を作りました。地球環境に気をつけたいです。震災後、修復した自宅を地域のために開放し、近所のお年寄りとの集まりを開いています。このことにより、震災当時のことを聞き、初めてわかることもあります。たとえば、震災時、我が家の猫がどうやっていたか。声掛けなど、近所付き合いの大切さを知りました。留守にする時、近所に声をかけると、鍵をかけないで出かけることが可能。

「自分は生かされている。生きることは生かされていること」と実感。津波の犠牲にならなかった自分。震災がきっかけで何かが変わる自分。以前よりもっと、「何かしなくでは」との気持ちが強くなりました。自分の意志でなく亡くなった人の分まで。自宅は高台にあるのに、たまたまあの日は海辺にいたり、高台への避難後、自宅へもどった人達が亡くなりました。他人に手招きされて、避難した方で助かった知人達。助かった人、犠牲になった人の違いについて考えます。なぜ自分が助かったか、"何かしなさい"と言われている気がします。人のために。同じ場所、同じ時間、同じ条件でいたのに、生死の分かれ目は何なのだろと自問。震災により、人それぞれの本質が出るのかもしれません。人間'性、生き方について考え、"これから"について考えたいです。

もう物に執着していません。何を大切にするかといった価値観が変わりました。人とのつながり、近所とのかかわり、相手を思う言葉や行動が大切で、そっと手を差し伸べたり想像力を働かせたりすることが大事かもしれません。いろんな経験をすることが人生を豊かにし、優しくします。必要なものは必要な時に来るのではないでしょうか。自然を大切に。黒い悪臭のへドロを海から返されたのです。しばらく2階の6畳一間に夫婦と息子の3人暮らし(+猫3匹)が、幸せで心がひとつでした。ロウソク、電池式の明かり。朝日と共に起き、太陽が沈むと就寝。私たち人間は、生き方を変えるべきです。何が無いかではなく、何があるか。自然は自然を修復します。2014年8月には、閉店した知り合いの喫茶店を引き継ぎ、|喫茶店経営を始める予定。

2014年3月29日

3)E.Fさん(70代)
店の床まで津波が来ました。薪でピザを作る店を経営しています。そのビザ釜が無事であったために、ガスや電気がなくとも薪で食事を作り、避難してきた人達に提供。10歳の時に東京大空襲を体験。真っ赤に燃える大火災や夜空から降る焼夷弾、6年生に引率された学童疎開を覚えています。東日本大震災時、あの東京大空襲をすぐに思い出しました。あの戦争当時を思えばなんとかなるのです。自分は恵まれていると思います。のんびり、マイペースの一人暮らし。一人だからなんとかなると思います一時期、避難所や店の大家さん宅で暮らしましたが、4日後には店に戻りそこで暮らしました。自宅への道路は寸断され帰宅困難。悲しいとか辛いと思いませんでした。お客様が立ち寄ってくれたことで、「店を早く再開したい」と強く感じました。しかし周囲の店がまだ再開していないので、自分の店だけ再開していいか迷いました。

両親への感謝の気持ち、元気に産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう。5年前、夫が亡くなった時も店を続けたいと願いました。夫が主にやっていたお店を今度は自分一人できりもり。今度の震災でも、神様が店を守ってくれたので、店を続けたい、自立していたいと思いました。運命かも。親せき、子供達が親切にしてくれ一人では生きていけないと実感。日ごろの付き合いが大切。いいお手本として、前向きな人に会うと励まされます。

当時店にいて自宅へ戻ろうとしたのですが、途中でなぜか店に引き返しました。そのまま行った人達が津波の犠牲になりました。運命の別れ道があるのかもしれません。震災、あれは何だったのでしょう。辛い時、悲しい時、運命だと思います。今日と同じように、明日も生きたいだけです。店には、いろんな客が来ます。震災前、喧I壁していた二人の女性が、震災後、店でばったり偶然再会し、仲直りした場面を見ましたよ。

2014年4月13日

4)G.Hさん(70代)
千年に一度の震災に遭遇できて「ありがとう」。千年に一度しかないことを経験できたのです。6歳で終戦という戦争体験があります。戦後はもっと辛かったです。悲しんでいても、しょうがないです。津波で汚れた物をすべて捨てる人がいますが、洗えば使えるのにどうして捨てるのでしょう?買えばいいと思って捨てるのは、もったいない。経営しているアパートも全壊。住人に早く満足のいくアパートを提供したいと思います。人が住めば復興も進むでしょう。

ある学校の茶道部を無償で指導していますが、被災後すぐに若い学生達が支援にきてくれました。お金にかえられない豊かな心、恩返しを感じました。物の捉え方やあり方を変え、出会いを大切にし、自分をしっかり持っていれば立ち直りが早いです。この3年で、個人個人の生き方の違いにより、立ち直りのスピードに違いがあると感じます。避難所から4日目に自宅へ戻り、アパート再建を決意。ローンを組みました。地域への貢献。津波にあったから、やれることがあります。53歳で夫が他界。自分が変わることが大切です。尽くすことが喜びであり、相手も自分に尽くし返ってきます自宅を防災ビルに改造したい希望です。市から補助金もあります。

一階を襲った波の上にプカプカ浮かぶ茶箱。中には茶道の高価な茶器。着物は何故か二階で無事。実は震災の前の週に、大きな茶会(初釜)の準備をし、高価な茶器だけ茶箱に入れて床の間においておきました。生き残った茶器を見て、"自分しかできない茶会"と直感しました。何かに守られている気もします。物やお金はなんとかなります人生は所詮終わることを知っています。茶道から教えられたものがたくさんあります 50代までは、自分のために生き、60代からはみんなのために伝え、教えたいと思ったのです。震災によって、いろんな経験をさせてもらいました。

3年後の今、心が満たされていない人が多いです。個人差が大きいけれど、個人として震災を乗り越えるものではないでしょうか。自分をどう生かしていくか、自分で、はいあがり、必要とされる、自分らしさをもって生きたいです。2014年以降は心のケアが必要ですね。普段から自分というものを持っていること。見返りを求めない。子どもや動物を育てて、自分も育つ。自分を確立していると相手を認め、許すことができます。運をつかむのは、精神の自立。自分に磨きをかける。他人をうらやまない、うらまない。経済的自立。品格(品性)。足るを知る。生きがいを持ち、どう生きるか。心の持ち方、毎日の生き方、人間関係について考えています。

2014年4月17日

5)I.Jさん(30代)
女性は強くてすぐに行動し、気持ちの切り替えが早いと思いました。ガレキやへドロで食べ物が不自由で生活がままならぬ時、"髪を切りたい"、"きれいにしておきたい""きれいになりたい"と自分の美容院にやって来る女性達。白髪が増え、抜け毛も多くなった当時の女'性達。ばっさりショートヘアにする人もいました。また洗髪できない日がくるかもしれないので、ショートヘアがいいと言う女性達。

ヘアローションやスキンケアの品に喜ぶお客。非常時ですら髪や肌のお手入れを気にする女性の客達。肌荒れ、ぱさぱさの髪。店の前の白いライラックが津波にも負けず3年ぶりに咲きました。潮をかぶっても咲く花達。この美容院にきておしやくりを楽しみ、お菓子を持参してくる客。癒しの時間を求めているのでしょう。自分自身、お客様と話し仕事をすることで支えられ、助けられました。

避難所で、近所の人と新しい関係を作りました。日本人でよかったと実感しました。4日目には、あふれる支援物資。ボランティアの人のありがたさ。2012年に結婚。

2014年4月27日

~~~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もう5年もたったのか......と驚く一方、私たちは学ぶべきことを学んだのだろうか?とも思います。原発の再稼働も大きなニュースになることなく進んでいますし、被災地の状況を伝える報道も「5年の節目」が来るまでは減っていました。「5年の節目」後にどうなってしまうのだろうかとも思います。

2月上旬、「あすびと福島」の半谷栄寿さんのガイドのもと、東京都市大枝廣研究室のゼミ生とともに、いわき市から南相馬市までマイクロバスで北上しながら、被災地の様子を見てきました。避難指示が解除されていない地域では、津波の被害のそのままが、時計が止まったかのように残されています。避難指示が解除された地域でも、戻ってくる人がまだ少なく、町の機能や活気がどうなってしまうのか、という声も聞きました。

人間は時間がたつと忘れていく性質を持っています。それでも忘れてはいけないものは忘れないようにしたい。そのために、ときどきでも振り返ったり思いを馳せたりする機会を持ちたいと思っています。

 

このページの先頭へ

このページの先頭へ