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えだブログ

2005
Jun
21

自分への甘さについて

2005年06月21日

 変化の担い手(チェンジ・エージェント)をはぐくみ、広げ、つなげ、支えることで向かうべき方向へ向かううねりを起こしたい、とパートナーと立ち上げたチェンジ・エージェントに、電話がかかってきたそうだ。

 「チェンジ・エージェントですか?」と聞かれて、「はい、そうです」と答えた瞬間、ああ、自分はチェンジ・エージェントなのだ、変化を作り出す役目なのだ、という自覚が体のすみずみにまで広がるような気がする。(電話を受けたのは私ではないけれど。^^;)

 名前って、面白いよなー、と思う。名付けにはすごいパワーがあるのだ。

 そういえば、5月24日のダイアリーに、ついまた反対方向の電車に乗ってしまった、という方向音痴話を書いたら、「そういうときに、自分に対してイライラしたり自己嫌悪に陥ったりしないんですか?」と聞かれた。

 答えは「ない」である。(^^;

 あのときも、まあ確かに寝不足であったし、大きな荷物を引きずっていたし、自分の方向音痴がなければ、30分早く帰れたはずなのに……と自分を責めてもよいシチュエーションだったのかもしれないが、私は「わぁ、またやっちゃった! ダイアリーになんて書いてやろうかな~」とけっこうそういう状況に陥った自分を楽しんでいたのである。

 第一に、私の方向音痴は不可抗力である。地震や台風に自己嫌悪を感じてもしかたないのと同じであって、ある周期で来るものなのだから、そういうときには「うひょー、来た来た。だれに話そうかな~」と思うぐらいである。

 第二に、私は自分にとても甘い。もう、べたべた、の甘さである。したがって、方向音痴に限らず、何であっても、自分を責めたり、批判したり、非難したり、ということはない。青春時代の大学の頃にはそんなことをしていた覚えがあるが、ここ数年~十数年はまったく覚えがないほどである。

 だいたい、どんなときでも、何が起こっても、自分を突き放さずに大事に守ってあげられるのは、自分しかいない。その最後の砦の自分が、自分を責めたり怒ったりしたら、だれが温かく受けとめてくれるのだろう? 誰にも頼れずにうち震えているひとりぼっちのみなしごになってしまうではないか。

 もっとも、私が自分に甘いのは、このように考えているからではなく、孫を可愛がる祖父母のように、ただ甘いのであるが。そして、私の周りの人々もとても私を甘やかしてくれているので、厳しい思いなどほとんどすることのない、ぬるま湯状態なのである。(根性を鍛えなきゃ対応できないようなつらい場面からはすぐに逃げ出すことにしているし)

 第三に、私はあまり怒りの感情や苛立ちを感じないようなのだ。

 先日、JFSの出版チームのボランティアさんたちとの打ち上げで、「エダヒロサンって、心電図ツー、ですよね」と言われた。まるで「オマエは死んでいる」といわれたみたいだが(^^;)、そのココロは、感情の起伏がない、ということだ。

 喜びや楽しさは人一倍感じているのではないかとは思うけど、確かに、有頂天になって我を忘れる、ということはない。淡々と喜びを感じている、という感じ。

 あまり怒りを感じないのは、ひとつは、そういう強い感情や衝動で我を忘れる、という事態が、「自分のたづなはいつも自分で握っていたい」という私の強い思いから外れてしまうからだと思う。つまり、自分の美意識に反するのね。

 もうひとつは、怒りや苛立ちを感じても不思議ではない場面でも(昔は感じていたであろう場面でも)、そうならないコツをだいぶ身につけたからだと思う。これは意識的な努力の結果である。

 いまでも苛立ちを感じそうな状況になると(もちろん、そういう状況がないわけではないのだ)、一呼吸置いて、その状況を「つかみなおす」ことをしている自分を感じる。そうして、冷静に「心電図ツー」状態で、対応する。

 第四に、私の毎日には色とりどりのいろいろなことが詰まっているので、そのなかで1つ、2つ面白くないことがあっても、すぐに忘れちゃうか、全体としてはOK!みたいな感じで、気にならないのだ。

 マーブルチョコの箱には色とりどりのチョコが入っているけど、たまに、ピンクや水色に比べたらぱっとしない茶色が出てきても、OK!なのである。

 もっとも茶色が最もチョコレートらしいのであるが。そして茶色があるからこそ、ピンクや黄色といった鮮やかな色が引き立つのである。これは人生も同じかもしれないね。(^^;

 

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