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女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その4)

2016年03月11日 |コラム
女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その4)

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東日本大震災から5年。

震災後、石巻市で救援活動のお手伝いをさせてもらったときにお世話になった方が送ってくださった小冊子の内容をご紹介してきました。「心にぐっとくる」「考えさせられる」「すごいと思う」など感想をいただいています。

今回がいただいた小冊子からの最後の5人のメッセージとなります。最後に、この聞き取りを続けていらっしゃる千葉さんからのメッセージも。ぜひお読みください。

~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~

16)H.Gさん(60代)
復興だけでなく世界平和を考えつつ、共に暮らす世界を作りたいです。生活の土台である台所から世界平和を唱えたいです。台所が変わらないと世界は変わらない。震災時、いろんな国から助けてもらい世界はつながっているとわかりました。復興のあり方を考えつつ、出会った人との関係や広がったつながりを大切にしたいです。より所、行き場所が必要。脱原発。人間は自然の一部ですから、穏やかに地球にやさしい生き方を考え、自然の贈り物に感謝したいです。自然はいじわるじゃない。

自分は土に帰るのだと思います。神に創造された人間であり、生きる体験、苦労や分かちあいを通じて、共に生き生かされている存在。ピリオドがいつ打たれるかわからない、どうなるかわかりません。震災前の関係は家族、友人、親戚だったけれど、震災後はおもいもかけない日本中、世界中からの支援で、自分の枠を大きくしてもらいました。国を越えて心配してもらい助けられありがたく、感謝です。ネットワーク、人はすべて大切。自分は何ができるか?生きていることは支えあいから成り立っているのです。仲良く安心して暮らすこと。生きることの継続であり、震災は人生の一コマです。シェアすることで仲間が増えます。

震災時、自宅に人が集まり、いろんな人が出入りし、しゃべり、輪が広がりました。幅が広がりました。ボランティアにご飯を提供するようになりました。仕事をやめて一年後に被災。台所が自分。季節のものを作っておもてなしして、"おいしい"と言われて嬉しい。ボランティアを泊めたり、浜を紹介。こんな所に来てくれて、まずはありがたいです。開かれた家庭が大切です。人の出入りで夫も変わりました。震災前は自宅に人を招くことはあまりありませんでしたが、震災後は人の世話をし役にたちたいと思うようになりました。自分が用いられ、生かされていることで存在する自分で自分の発見です。

震災で、支援を受ける立場になり、かけつけるボランティアに驚き。これが神がいう隣人で、自分もこうなりたいと思います。することを与えられている自分。生かされている喜び。自分は精一杯やってきたが、それ以上に支援の輪。お金ではなく、人との寄り合い、共に寄り添うことが、本来の人間の姿なのです。老いる(死)ことも考え始め、弱いから共に生きるのではないでしょうか。生病老死について、出会いから考えさせられました。これからの計画は、おいしい石巻のものの販売、不登校の若者支援、病気でも働ける活動の場を作りたいです。多様な場所で、核家族から地域での共生型社会へ。

2014年9月23日

17)J.Iさん(50代)
地球全体に関心があります。人間じゃなくて。3.11の時、今、死ねないと思いました。自分の命を守らなくちゃと。まず自分の命それから次。家族がいることが大切。感をたよって、直感、反射の力が大切です。チリ地震を体験(中瀬で)し、教育と訓練でほんのわずかの差で決まると思います。火事場の馬鹿力のように女性は強いです。津波がきて、1.5mの塀を乗り越えました。津波を見た時、あっ、死ぬなと思ったのです。命が危ないと直感。乗っていた車に「ありがとう」と言って、知らない人の家の二階へ避難。マンションの上から男の人が「そこにいろ」と叫んでくれました。家の人が避難してどこかへ逃げようとしていましたが、その住人が「入らいん」と招き入れてくれました。タイミングがよかった。13日、線路を渡って帰り、すれ違う人と情報交換。石巻は全滅かと思いました。

見えない力に助けられた気もします。食べ物は高齢者へ渡しました。丘の人達は被災者を泊めていました。自分の家族は無事なので、職場優先だと思いました。女性は臨機応変、優先順位をつけました。職場は女性が多かったので、生活の知恵を活かし、細かい所に気がつき、衛生面、プールの水でトイレなど工夫しました。支援学校で食事作り(プロパン、調理室)。近くの農家や自衛隊から野菜をいただく。生徒の安否確認(一週間後)。

被災者が避難してきたので対応、運営。日赤の患者も。市役所の管理者が役に立たなかったです。自分を守ることと、家を失った同僚に食べものをあげたいと思いました。自分にできることは何か、自分の好きな分野で楽しい事をしたいです。ニーズがあり、2011年にNPOを設立し、知的障害者や自閉症の子供のための空間を作りました。みんな違う絵を描いています。見ることで自分も癒されました。みんながやっているからとの理由じゃありません。宇宙、空、生命が好き。人間を作ったのは宇宙。人間は宇宙のしずくかも。自由に飛びたいです。

6歳の女の子を描き続ける自分。生まれた瞬間から6歳までに、すべての自分がそこにあると感じます。死ぬ時、原点に戻る気がします。無口な子供時代。しゃべらない。大人の視点で同年代の子を見て、うるさい幼い子供達だなあと観察していました。今、「描きたい」と思います。最近、「6歳を描くために生まれたんだ、これだ!」とストンときました。自分を肯定するのが難しくて悩んでいた時、ハワイに一人旅をしました。空からこぼれる光が、「これでいいんだ」と言ってくれました。

障害は不幸ではありません。家族が大切、一緒にいる幸せが大事。自分を肯定することも。2014年、いろんなひらめきがありました。不幸は物を失う事じゃなく、死ぬことでもなく、人間の負の部分が出た時、たとえば裏切り、周囲の支えが無い時、温かい家族がない時で、そういう時に人はくじけるのかもしれません。必要とされる人間になり、生きていればいい事があります。ロウソクで集まり、一つの部屋で眠り、バラバラだった家族が一緒になったあたたかい雰囲気。みんなが集まると温かい。みんなでいればいい。物じゃない。ミカンを4つに切って嬉しかったです。残りの人生を絵にかけ、死ぬまで1000枚描きたいです。あふれるテーマとひらめき。

2014年10月1日

18)L.Kさん(70代)
若いころ、2時間だけのパートで組織で働き、商品を棚に並べる仕事でした。息子が小学生のころ、だんだん一日3時間になり、その後エリアマネージャー、そして理事になりました。3.11は佐沼で会合。古川の知人宅に13日までいて、その後タクシーで石巻に帰り義母、夫、息子と合流しました。3人は日和山へ車で避難していました。高校で5月まで避難生活。毎日、6時に決まっていた夕食の時間が、仕事をしている人には不便でした。南浜の家が流失。4人で仮設へ移りました。早い時期に仮設が当たったのは、何かコネであたったと噂されました。大きな地震の時は、とにかく逃げることが大切です。

市内の店舗へ物資を届けました。マナーが悪い人もいて、何回も持って行く人、こっそり持って行く人、職員の靴を持って行く人がいて嫌になりました。その時、がんばりすぎていた自分に気がつき、自分も癒されるべきと思いました。支援者のための支援プログラムにはっとしました。ボランティアの食事作り、おびただしい物資のしわけ、お茶のみ会の準備(お菓子、飲み物)に疲れ果てていました。半面、やりがいもありました。仮設に閉じこもっていたら気分が落ち込みますから、支援する側にたち達成感がありました。自分はエリアリーダーの聞き役。防災というが、いくら備えがあってもいつどんな形で起こるかわかりません。備えが役にたつか疑問。失ったものも大きいが、日本、世界から支援をいただき、得た物が大きいです。

以前は仕事でもプライベートでも毎年、海外へ行っていました。以前の自宅の庭には200鉢の花がありました。仮設でも花作りをしています。60歳でパソコンを始めました。来年、家を建てる楽しみができました。99歳の義母を今年亡くしました。家を流失しましたが、他の人に比べれば、自分はかすり傷の被災です。知人は娘や孫を失ったり、母か孫か、どちらかしか救えない時、母を見殺しにしたり、残された遺族もけんかがあります。遠方からのボランティアも、どの仮設を支援するかで悩んだり、同じ仮設住民同士でいさかいがあり、恵まれた仮設とそうでない仮設があるのです。仮設の集会所はグループができて、仲間外れにされる人もいます。

子どもの写真や海外旅行のお土産品、服を失いました。季節の変わり目に「あの服があった」と思いだし、もうないのだとハッとします。家族を失った悲しみに寄り添い、共に泣いています。沖縄の台風被害を見て「大変かなぁ」と言ったら、息子は「こっちは3年半も仮設だ」と。娘が仙台にいて、3.11当時にお風呂のために秋生温泉へ行きました。ストレスは仲間にしゃべります。

2014年11月8日

19)N.Mさん(70代)
3.11の日、|喫茶店「モミの木」が店内でロウソクをつけ、ドアを開け放し被災者を受け入れていました。パンをもらいました。(オーナーの女'性は2014年11月10日に逝去)自分は生きているのではなく、生かされていると思います。夫は震災後、癌を発病し、手術と入院をしたので、私は高速道路で毎日病院へ行きました。主治医は3年もつかどうかと言いましたが、現在も元気でほっとしています。息子は鬱とDV、交通事故、ボヤを体験しています。2013年に、借りていた家を買いました。3.11当日、夫と共に車で小学校へ避難。豆腐、リンゴ、油揚げの支給がありました。校庭で10日間、車中で猫を抱きながら生活しました。その後、夫の実家や兄の家へ。八戸の友人がガソリンをもってきてくれました。猫が亡くなりました。田代島で子猫のころ助けて、島から石巻へ連れてきました。夫に命をくれたのでしょう。二匹目の猫は夫と散歩が好きです。

被災当時、辛いと感じませんでした、夢中だったからでしょう。疲れたと思わなかったのです。見舞いの帰り、高速道路のパーキングエリアで、ある日、「野菜が食べたい」と強く思いました。被災したのは、自分だけじやない、みんなも同じです。知人が遠方からきて日和山から写真を撮っていましたが、一緒に写真に入れない気分でした。外部と内部の温度差を感じました。日々、食べていかなければなりません。何かしてなければ、落ち着きません。知人からの手紙に「普通に戻りましたか?」とありました。普通って何?普通を取り戻すって何?と自問しました。言葉に表せませんがあふれる物に囲まれる生活のこと?豊かさって?何が大切かと考えています。神から与えられた試練、神が決めたレールで、人生に組み込まれた震災ではないかと。

母は自分が小さいころ離婚し、女手ひとつで育ててくれました。母の再婚。転校の繰り返し。いじめにもあい、学校へ行きたくないと言うと、「いいよ、外へも出ないね」と母に柱に縛られました。自分も離婚を経験しました。人生はこういう風になっていたんだ。若いころ札幌で看護師として結核病棟勤務していました。苦しみは薄皮のようにはがれる、明日一枚づつめくられます。すり鉢の底の様などん底、明日はまた別のどん底。明日考えよう。3.11は苦しくなく、悲しくもありません。忘れるから人は生きられるのではないでしょうか。

2014年10月26日

20)P.Oさん(30代)
3.11の日は、お花の稽古に行きましたが、駐車場で忘れ物をしたことに気づき家に戻りました。途中で被災。妹の住む高台に逃げ、しばらく泊めてもらいました。守られている奇跡を感ました。妹の家はプロパンガスで旧式の石油ストーブもあり、生活に困りませんでした。津波があったら、妹のいる高台へ逃げると両親からいつも言われていたので、命を守る意識が高かったのでしょう。先祖に守られているように感謝しています。「お天道様がみているから悪い事はできない」と、日ごろ思っています。命に感謝。化粧品の石けんを支援として配布しました。

以前から美容の仕事がしたいと思っていたので、震災後、仙台へ行きました。いい機会で、新しい生活のきっかけとなりました。美容で自立しようと、夢へ一歩を踏み出すことができました。初めての一人暮らしと美容サロンの仕事が始まりました。震災に対する仙台と石巻の人々の温度差がありました。大好きな故郷、石巻がいつも心配でした。何かしたい、役にたちたいと思いました。2年半のサロンでの経験を積んだ今、自分の美容サロンを開き潜在的な夢が実現しました。癒しの空間とおもてなしの心で、自分ができることで誰かを支えたいです。みんなのサポートを受け周りに助けられながら、やりたいことをやれる今です。女性がきれいなると男'性も元気になり社会がよくなって社会貢献するような気もします。自分のサロンを経営することは働きやすく、経済的精神的に育児、家事の両立ができます。

アンテナをはって夢を持って思い続けることが大切です。物じやなく人のつながりや出会いが大事だとわかりました。一人では生きていけません。お金に変えられない何かがあります。親友が病気で亡くなり、命について考えています。もっと生きたかった人がいるのです。健康で元気なことに感謝しています。4年後の今も、津波が心配で、気持ちが不安定になることがあります。まず自分をいたわり、満たして、そして他人に幸せをおすそわけできればと願います。ニコニコの笑顔が循環するといいですね。2015年2月28日

終わりに

手にとったり、目でとらえたりできない気持ちを自らの言葉で表現してくださった石巻市の20人の女性達.東日本大震災を経験して、何をどう受け止め、何を思い考えているのでしょう。私が20人にお会いしてお話を聞いて感じたことは、あの日2011年3月11日は彼女達の心の奥に深くしっかり刻みこまれて、過去、現在、未来がつながっていることです。震災の当日のことを、つい昨日のように詳細を思い出し、その後の経験をたどりながら、今日現在の現実に向きあい、話は幼かった時の過去へともどり、また、これから待っている未来へとおよびました。

女性達のそれぞれの物語には幾つかの共通点もあります。自分の意志を越えて「生かされている」、失ったものも多いけれど、得たものも多く、震災前は想像もしていなかった出会いや出来事に「感謝」、他人から必要とされる存在でありたい「奉仕や貢献の気持ち」、あらためて気が気づいた「家族の大切さ」、支援に駆けつけた日本中・世界中の人々との「つながり」。また、過剰な物質的満足を省みて、精神的「豊かさ」への価値観の転換、自然との共生への関心、家族や隣人、他人との間での物の共有の重要さ、空間と時間を分かちあう共同生活から得る心理的充足感もあげられます。

日々、迷いながら行ったり来たりしながらも何かを始めようと動き始めた女性達。震災前から抱いていた夢を実現したり、震災がきっかけとなり新しい夢に向かって一歩を踏み出した女性達もいます。被災地で生きる、その強さとしなやかさは、どこからくるのでしょうか。私が知りたかったことの一つです。お話の中で、家族の病気や入退院、戦争体験、若くしての夫との死別や離婚、多額の負債、計画の失敗、親の介護、家族間の不和や心配事といった非常に個人的経験も教えてくださいました。震災前の人生そのものが丸ごと被災時の行動と対応の基礎となり、その後の生き方に反映されるのかもしれません。

彼女達のメッセージが、日本や世界のどこかの女性達へ届くことを願います。

最後になりましたが、私とのお話の時間をくださった20人の女性たちに心より感謝申し上げます。2015年10月20日聞き手千葉直美宮城県石巻市にて

聞き書きを今後も続けたいと考えております。発行を支えてくださいますでしょうか。
問い合わせ先 e-mail swan20110311(@)gmail.com
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~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~~~

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