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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2016年08月01日

女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から、その5(2016.07.31)

大切なこと
 

東日本大震災から5年以上が過ぎました。熊本の震災もあり、「被災地」といえば熊本・大分という連想が浮かぶことも多いかも知れません。でも、東北の被災地も忘れずに、気持ちと支援を向け続けていきたいと思います。

2011年4月~5月に、10日間ほど石巻市に入り、救援活動のお手伝いをさせてもらったときにお世話になった方が、石巻の女性たちの聞き取りをつづけていらっしゃいます。これまで4回に分けてお届けしましたが、「聞き取りその2」を送っていただきました。

また、何回かに分けてご紹介します。今回は4人の女性たちからのメッセージをぜひお読みください。

~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~

女性達からのメッセージ ②

東日本大震災の被災地 宮城県石巻市から

2016年7月

1)Aさん(60代)                   2015年10月24日

避難する時、海の上を歩きました。ヘリコプターに手を振り、"生きている"と伝えたかったです。悲しいとか苦しいという感情はなかったです。地震の後、なぜかすぐにラジオだけを持って逃げました。1日中、飲まず食わずで彷徨いました。やっと山の上のゴミ処理所の廃屋へたどり着きました。難民として帰る所がないって、こういうことかなぁと思いました。ご遺体を捜索していた自衛隊が、一体一体に手を合わせていました。3.11に歯医者に行く予定だった夫が、なぜか前の日に変更になったから一緒に逃げることができました。まず自分だけを守ること、自分の命は自分しか守れないのです。人を待たないで、逃げること。いろんな感情が混じりますが、家が津波で破壊されたことは悲しくないんです。肉親を亡くした人の方が悲しいでしょう。妹が精神をやられて、励ましの仕方がむずかしいです。未来がどうなるかわかりません。

津波の数日後、家に戻るとサボテンの鉢植えだけが2階に残っていました。息子が2階から持って降りてきたんです。あんな状況で緑を見るなんて驚きました。そのサボテンを大切に育てているのですが、あれ以来、咲きません。水仙も庭に残っていましたので、それも掘り起こして持ってきました。

11日目に避難所から仙台へ移りました。3年間、仙台に住みました。散歩しながら他所のお宅の庭に、かつての我が家にあった植物を見ると悲しかったです。煮物の匂いで故郷を思い出して、「どうして、ここに自分がいるの?」とハッとしたこともあります。仙台のバスの中で「コンサートの案内」というアナウンスを聞いた時、なんて石巻と違うのだろう、別世界なんだなぁと驚きました。

3.11をきっかけに一歩踏み出しました。それはやめたかった電気屋をやめること。忙しすぎたの。メンテナンスや修理、経理など50年間働いて、生活よりも仕事が優先でした。バス待ちの人が寄りあう場所でもあったし、ホームレスや老人も、よく来ました。最近の電化製品は壊れると、部品交換で済むのに、すべて買い替えするシステムになっていて、無駄なものですね。今は一日一日を生きていて、生きがいだった仕事がないけれど、大切なことはお金ではないとわかりました。アボカドを震災後から育てています。子供のころから石や木の化石を拾うのが好き。

地震の後、近所の人が、車を取りに戻って亡くなりました。津波が来るから行っちゃ駄目だと強くひきとめればよかった。ニコッて笑った姿が忘れられず一生ひきずるだろうと思います。2011年5月12日に5人の親戚を火葬。悲しかった。3.11の前に車が変な音をたてました。防災無線の音は嫌。きっと大きな自然災害がまたくるでしょう。地層をみると、地球や自然は大きく長い歴史があって、人間は小さい存在です。3.11の数カ月前にイワシ(小さい稚魚)の大群が来たの。油断はこわいね。

読書が好きで、特に、「赤毛のアン」や「あしながおじさん」の"どんなに今日つらくとも明日は楽しい"っていうテーマがいいわね。映画、文楽、フラメンコも好き。震災前、ハスの花、ブラックベリーの群生、はまぐりを見ました。今は時間を気にせず読書や勉強をしたいです。

私の母は、幼い息子を病気で亡くし、次の年に私が産まれました。母に抱きしめられなかった。自分も子供を抱きしめてやれないんです。酒乱の父でしたが、自分を可愛がってくれました。戦争体験のある父は、中国語で「助けて!」と叫ぶことがありました。母は傷ついていたことでしょう。両親を理解したい今。戦争は残酷ですね。戦後、雄勝峠を兵士が帰ってきたら、赤ん坊のおしめを干している妻の姿を見たそうです。自分の兄と結婚していたことがわかり、峠をそのままもどったそうよ。

私は4人の子供がいますが、解決しなければいけないことがあって子供と向き合いたいし、あらためて子供を育てたいと思います。ゆっくり散歩したい。平凡にゆっくり生きたい。3年かかって、やっとゆっくりできます。

新築の家を平屋にした理由は、近所の人が何かあったらここへ避難しやすいし、50人規模で介護しやすい、すぐ救助できる、汚れを洗う、土のトイレが可能なように設計しました。

2)Bさん(50代)                  2016年1月20日

3.11の日は仕事が休みで家にいました。4日目に、ほとんど水没していた職場へ自転車を水の中をこいでいきました。職場での震災では、一人の責任者(上司)の判断が大きかったと思います。社員の待機や解散の判断により、命にかかわります。3.11の夜中に奥さんを職場にボートで迎えに来たある男性が、「他にいませんか」と聞いたら、上司は「いません」と言ったそうです。他の人達も一緒にボートで避難できたかもしれません。

自分の自宅は、津波がこなくてそれほど被害がなかったので、親戚が避難してきました。私がスーパーの前に何時間も並んで確保したスパゲティや卵、チョコを断りもなく親戚が黙って食べて、ムッとしました。 

時間と共に薄れる記憶。息子が生きているだけて嬉しい。家族とけんかする日々だけど、亡くなった人達や子供を失くした人達よりましです。自分がいいことをすればいいことが返って来るという因果って本当でしょうか?亡くなった人達は、何か悪いことをしたの?子を失くして今も苦しい女性達は何か悪いことをしたの?私は、たまたま休みで、家族全員家に一緒にいただけで罪悪感があります。これって運がよかったの?運がいいって何?亡くなった人は運が悪いの?亡くなった人、親しい人を失くした人より自分はましなのでしょうか。しかしそれ自体が申しわけない。受験をひかえた高校生の子供の将来が見えない今、悩む日々。朝めざめて、死んだ方がましと思う罪悪感があります。また同じ様な大きな震災がきて同じような大きな災害で自分の命が終わってほしいとも思います。私が身代わりになればよかったんです。生かされたのに。生きたかった人がいるのに。震災で死ねばよかったと言うことは罰当たりだけど。神様が選ぶのでしょうか?

震災が起こるとは思ってもみなかった。また来たらどうしよう。母はチリ地震(1960年)を経験しているのに、もう伝説のようだと言います。私が経験した3.11の記憶もいつか薄れて伝説になるのかもしれません。片隅の記憶がひらめきになればいいですが。"あの時こうしておけばよかった"というのは結果論で、すべて結果論で物事が言われるのではないでしょうか。

3)Cさん (50代)                2016年2月6日(土)

海辺の小学校にいた当時3年生だった息子を、津波で失いました。"山さ逃げっぺ!"と言った子供達がいたと証言した人がいます。いつも自主性を大切にと言っているのに、先生の言うことをじっと守って聞いていた74人の子供達が波にのまれて犠牲になりました。10人の先生達も犠牲になりました。「先生の言う事をよく聞いて」という保護者や教師の言葉を守った子供達。先生を信じていた子供達です。先生の言う事を聞けと息子に言っていた自分は間違っていたのでしょうか。これから、あの場所で学ぶべきです。本当は校舎は震災遺構として残してほしくないけれど、学ぶ場所にしてほしいです。

迎えに来てもらった子供達を見て、息子はうらやましかったでしょう。なんでお母さんは迎えにこないのかと思ったでしょう。迎えに行かなかったことを後悔しています。でも学校が安全だと信じ切っていたんです。学校にいれば安全と思って。

息子の死後、学習机の一番上の引き出しの奥から、花の種が入った袋を見つけました。小学一年生の時に育てたあさがおの種でした。当時、おばあさんや床屋さん等5人にあげていました。袋には「未来の自分へ」と書かれていました。野球が好きだったから、何かそんな夢でもあたったのかもしれません。大きくなったら植えて咲かせようと思ったのかもしれません。3.11の後、桜が咲いているのもわからず生きていました。子供との思い出を思い出すから大型ショッピングモールには行けません。同じ年齢の子供を見るのが辛い。平日の時間とか夕方行くけど、やっぱりいる子供達。ゲーム店や本屋に行った思い出など一緒に連れていった場所へ行けない。今度中学3年生になるはずでした。迎えに来てもらって助かった子供の中に、一緒に野球をした子供がいます。子供が悪いわけじゃないけど、会いたくないし、むこうで遊んでいる声がするのが耐えらません。

3.11の後、息子をどんなに探しても見つからないので遠く外洋へ流されたかと諦めていました。そんな時、出島の海で同級生の子供が見つかり、息子も見つかるかもしれないと期待しました。4月2日、やっと田んぼで見つかりました。ヘルメットをかぶり衣服も着ていて破れていなかったです。傷もない顔、きれいな体。ヘルメットの顎のバンドがくいこんで赤くなっていました。左の靴だけ脱げていました。溺死という死因です。ビニールに包まれて保冷車に乗せられました。今でもこの車をみると辛いです。当時、火葬場がないので、夫が子供の遺体を乗せて福島の火葬場まで行きました。3.11の前もそうですが、TVで手術や暴力のシーンが嫌で見ていられない自分が、安置所の凄い遺体を見て回って、身長何センチとかをたよりに安置所をあちこち探し回り、田んぼや海も往復しました。5割の子供達の体はきれいですが、山に打ち上げられたり、校舎で渦の中にいたり、神社に打ち上げられた子供達には傷があります。息子はゲーム仲間の友達と同じ日に見つかり、安置所でも、その女の子と並んでいました。

夫の父親が震災の前年に亡くなりました。高齢だし覚悟ができていたから諦めもつきますが、まさか子供が死ぬなんて。朝まで元気で、このこたつの横で一緒にご飯を食べて話していたんですよ。学校が安全だって疑わず、先生もいるし山もあるし。バス通学だからバスで逃げれればよかったのに。おじいさん、おばあさんが、バス停で孫のスクールバスを待っていて犠牲になったケースもあると聞きました。何かができたはず。津波への予見なしで、なぜ逃げずに50分も校庭にいるの? 私は一生背負っていきます。初めから子供がいない夫婦ならわかりますが、子供を産んで育てたのに失くすなんて!

近くの中学校が2016年3月で閉校になりました。その閉校式でのあいさつに「児童の数が減少したから・・」とありましたが、なんで減ったのか考えてほしい。入学する児童が津波で失くなったのですよ。なかったことになるのが怖い。子供はしたかったことがいっぱいあったにちがいありません。私の気持ちは何年経とうと同じです。むしろ辛くなっています。他の子供の成長について(中学、高校、大学へ進学、入学、卒業等)、職場での会話は聞こえないふりをしています。海に近い他の学校の子供達は助かっています。命を大切に行動すべきです。夫はあれから癌になり、「死んでもいい、息子のところへ行く」と言いました。

同じく子供を亡くしたご遺族との交流が支えです。あれから夫婦でけんかばかりで、TVを見て泣くと夫がまた泣くのかと怒るんです。冷静になれと。昔は夫との間で、子供がクッションになっていました。いじめのTVは許せません。一人でも子供が残っている遺族と全部失くした遺族のギャップを感じます。

田んぼを所有していますが、他の人にまかせました。継ぐ子供がいないのに守ってどうするのでしょう。 今は、畑や庭作りが好きで、花を育てて仏壇に供えたいです。

4)Dさん(60代)                  2016年2月7日(日)

夫の姉が入院中でしたが、地震の後すぐ病院で亡くなりました。私の自宅に一週間ほどあづかりました。火葬場がないから。寒かったのでご遺体はそのままで大丈夫でした。津波で畳は濡れていましたが、何枚か乾いたものがあったのでそれを敷いて、その上に寝せました。知人がどこかへ持っていく予定だった花を数本いただいて供えました。

地震の後、近所の人に誘われて自分は近くの建物に避難して、六日目に戻りました。1階は水がきましたが、2階は大丈夫で布団もあったし少し食べものがあったので助かりました。町内会の各班ごとに支援物資を配布。パンやおにぎり。

自分のやっている床屋は波が来て、しばらく再開できませんでした。二週間後ぐらいに髪を切ってくださいと言う人がいたので、無事だったハサミを探し出し、普通のイスで切ってあげました。灯油のボイラー、ボンベのガスで水を沸かしました。反射式ストーブで煮炊き。店を直し、ボランティアの髪も洗い、切ってあげました。8月ぐらいまで。ボランティアに店内のクーラーのきいた所で昼ごはんを食べてもらうスペースを提供しました。カツオ、サンマのさしみ、わかめ、シーチキンのあえもの、アイス、スイカ等をごちそうしました。5人から10人ぐらいのボランティアに、店内の津波の水だしと床を剥ぐ作業を手伝ってもらったから。身内が亡くなっていないから、ましです。大きな地震があったらとにかく逃げること。今でもちょっと揺れるとドアを開けます。台湾地震(2016年)に寄付したい。

3.11後のしばらくの間は水をかぶったり壊れた物がいっぱい捨てられ、道が一人通れるぐらいでした。娘が冷蔵庫を送ってくれましたが、宅配の車が通れませんでした。親せきが水や灯油を持ってきてくれたし、二階の冷凍庫の物が、自然解凍して少し食べることができました。一人より二人だったからできたと思い、よくやったなぁと言うより、よくできたなぁと思います。これからは、年をとってきたから、年相応に生きていきたい。娘の結婚式でハワイに行ったので、またいつか行きたいです。貯金をしなくちゃね。テレビの旅番組を見て、行った気になります。膝に水がたまるので、一か月に一度注射をしてもらっています。床屋は立ち仕事だけど、歩数はあまりないんです。お客さんの聞き役かな、できることは。自分はあまり小説を読まないから、あまり考えたり話したりするのが苦手。自分よりひどい被害の人がいっぱいいます。自分よりひどい被害の人には、自分の話をしないで聞くだけ。遺体安置所になった体育館に勤務していた息子の悩みも聞きます。息子家族には、食べ物を、分けてあげました。東京の娘たちは来たくてもしばらく来れなかったです。交通手段もない
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自分は通信制で床屋になりました。子供のころから髪を触るのが好きで、母が理容師をすすめたのです。夫と二人で自分の店を持つまで、2か所の店に勤務しました。お見合いで結婚して自分の店を持ったんです。無理せず、定年のない職なので、できるまで続けたい。常連の客も年を重ね、自分も年をとって、古い客は老いて亡くなっています。最近予約制の床屋が多くなって、遠方から来た仮設の人が予約がなくて困っていますが、この店は予約制じゃないのでタクシーが連れて来てくれるんです。帰りは夫が送っていきます。そんなお客様は、次回からは夫が送り迎え。床屋の帰りの途中、お客が買い物をしたいと言えばスーパーに寄ってあげる夫。この床屋は混むときは混むけど、誰も来ない日もあるんです。床屋に行きたい気分ってみんな同じなのかしら。43年も床屋をやっています。私は紙やタオルで小物を作る手仕事が好きで夢中になっています。

 

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