エダヒロ・ライブラリーレスター・R・ブラウン

情報更新日:2005年05月26日

「レスターの生い立ちと素顔」

対談
 
【レスター】 ここから楽しいところですよ、みなさん。(会場、笑) 【枝廣】 今日はいろいろレスターの"人となり"に迫ってみたいと思います。彼には半生を振りかえっておいてね、と頼んだので準備ができていると思います。レスターは、みなさんご存知でしょうか? 今年68歳なんですね。半生といっても本当に長い年月かと思いますが。 では、第一問。あなたはどんなお子さんでしたか? 【レスター】 うっ。次の質問をどーぞ!(会場、爆笑) ええと、私は自分が生まれ育った環境によって、いまの自分になったと思っています。これは偏りのない見方だと思っています。私が育ったのは農村地帯で、農家でした。ですから、やらなくてはならないことがいっぱいありました。物心ついてから、ずっと農場の手伝いをしていましたよ。作物の栽培のほかに、家畜を飼って、乳牛もいたし、鶏も豚も飼っていました。野菜でも、トマトとかアスパラガス、ピーマンなどいろいろ作っていました。 私の子ども時代の行動は、このような環境に大きく影響を受けましたね。家族みんながそれぞれ働かなくてはなりませんでしたからね、いたずらをする時間はそれほどありませんでしたよ。きっとjunkoは、いたずら少年の話を思い浮かべていたのかもしれないけど。 【枝廣】 勉強は好きでしたか? 【レスター】 考えることが好きでした。本を読むのも好きでした。そして、いろいろなことを分析することが好きでした。たぶん、一生徒としてより、独立したアナリストとして、うまくいっていたのではないかな、と思います。 学校の成績も悪くはなかったけど、生徒としての自分だけに浸りきるということではありませんでした。いくつか理由があります。一つは、やっぱり農家ですから、家業を手伝って、農場で働きゃなきゃならなかったということ。2つ目は、スポーツ大好き少年でしたから。農場の手伝いもして、スポーツもして、という生徒でしたね。乳牛を20頭飼っていたので、毎日毎日お乳を搾らなきゃいけないんです。3歳年下の弟がいまして、父と私と弟で、毎日お乳を手で搾らなきゃいけない。そのころ搾乳機がありませんでしたから。数年間、毎日一日も欠かさず、乳搾りをするということもありました。「今日はちょっと体調が悪いから、ごめん、休ませて」なんてことはありえないんですね。乳牛のほうは毎日搾ってもらわないと困るから。ですから今でも、私は毎日仕事をしています。働きゃなきゃいけないから、というのではなくて、自分のやっていることが楽しいからですけど。少年時代、読書が大好きでした。次から次に本を読みましたけれども、特に貪るように読んだのが伝記でした。特にアメリカの昔の偉人たちの伝記です。ジョージ・ワシントンとか、ジェファーソン、リンカーンとかフランクリンとか。私の両親はどちらも小学校を卒業していなかったし、私は家族で一番上の子どもだったので、学びたいと思ったときに、自分で本を読んで勉強することが多かったのです。幼少の頃にこのような伝記をたくさん読んだことから、無意識だったのでしょうが、世界のことを考えたい、という気持ちが出てきたのではないかと思います。自分は自分の時代の大きな問題について考えてみよう、と。例えば、ワシントンの伝記を読むと、「独立」が大きな問題だった。リンカーンにとっては、「奴隷の解放」でした。私にとっては、「環境」が大きな問題だったということでしょう。それとね、あ、次の質問が出てこないように、この質問にしがみついて答え続けようと思っています(笑)。少年の頃、スポーツがど大好きでした。今でも好きです。高校のときには、フットボール、レスリング、陸上をやりました。高校でまずやったのがレスリング、次がフットボールでした。どういう理由か、身体がぶつかり合うようなスポーツが好きだったようで。でも今でも続けているのは、ランニングです。いちばん最近走ったのは、ワシントンDCで毎年桜の時期になると行われる10マイルの「チェリー・ブロッサム・マラソン(桜の花マラソン)」です。毎年走っているのですが、いつも7マイルから8マイルの地点まで来ると、「なぜ自分はレースに参加しているのだろう?」と思うんですね。 それで思い出すんです。「ああ、そうだった、日本人がワシントンに桜の木を持ってきてくれたのだった。その桜がなかったら、毎年この時期に桜の花マラソンもなかったのに!」とね。(笑) 【枝廣】 少しご両親の話が出たんですが、小さい頃でも大きくなってからでもいいですが、ご両親から学んだ一番大切なことは何だったですか? 【レスター】 勤勉の大切さ、だったのではないかと思います。そして、責任をとるということ。 【枝廣】 さきほど、農家のお手伝いをしていたということですが、トマトを作るのがとても上手だったという話を聞いたことがあるんですが。 【レスター】 私の履歴の中でもあまり知られていない事実なのですが、1949年、ニュージャージー州の自分の住んでいた郡で、「ジュニア・トマトもぎチャンピオン」に選ばれているんです(笑) どういうことだったかというと、私は弟と一緒に、新しい農業のやり方をやってみようと思っていたんですね。兄弟で自分たちの農場運営をはじめたいと思いました。そういうことは、アメリカのような国では可能なんです。「4H」とか「未来の農家」という若手向けの農業団体がいろいろありますので。で、私たちはトマト栽培をすることに決めました。トマトを選んだのは、学校の学期にぴったりあうからなんです。学期が始まるまえに植え付けをして、夏休みの間に収穫する、という具合にね。これならトマトも学校も両方できますから。 自分が15歳、弟が12歳のときだったと思いますが、お金を貯めて、古くて使いものにならなくなったトラクターを200ドルで買いました。それを修理して、走れるようにして、畑を2つ借りて、トマトの栽培を始めたんです。10年後には、700トン(70万キロ)ものトマトを売るようになっていましたよ。 【枝廣】 少し成長してもらって、今度は大学に入る頃の話を聞きたいんですが、大学で何を勉強したくて、何を専攻したのか、教えてください。 【レスター】 ニュージャージー州の州立大学でラトガーズ大学に行きました。そこで、農業科学を専攻しました。一生ずっとトマトの栽培をしようと思っていましたから。 【枝廣】 実際大学を出た後は、どのように? トマト畑に戻ったのですか? 【レスター】 ええ。でも大学に行っている間もトマトの栽培をずっと続けてましたけどね。ラドガース大学を卒業したあと、インドの村に住んでみるという話がありました。そのチャンスはとても魅力的だったので、1956年の12月はインドで過ごしました。その間は弟がトマト畑の収穫をしてくれました。 インドの村にいるときも、トマトの栽培を続けようと思っていました。インドから帰ってから、2年間はトマトの栽培を続けましたが、世界の食糧問題に関する仕事がしたい、と考えるようになり、米国農務省の海外農業局に入りました。 【枝廣】 食糧問題に関心を持ったのは、やはりインドでの経験がきっかけでしょうか? 【レスター】 ええ。インドの村に行って、それまで見たこともないような人口圧力というものを経験しました。それで私は、人口問題、貧困、開発、そしてもちろん農業に関心を持つようになったのです。 【枝廣】 農務省には何年ぐらい勤めていて、主にどういう仕事をされていたんでしょう? 【レスター】 1959年から69年の10年間、農務省にいました。最初は国際農業のアナリストとして働きました。特にアジア関係のアナリストをしました。次に農務長官の海外農業政策顧問ということで務めまして、最後には国際農業開発局の局長を務めました。この局というのは、40ヶ国のプログラムに関して、農務省に対して専門的なアシスタント役を行う部門です。この間、私はすぐに世界の農業について多くのことを学んだのです。 【枝廣】 農務省での10年間の中で、もっとも印象に残っている出来事もしくは仕事は、どんなものでしたか? 【レスター】 そうですね。もっとも記憶に残っているのは、1965年の秋にインドに行ったときのことだと思います。インドが農業の新5ヵ年計画を行っているときに、農業分野を見に行ったのです。 ちょうどそのとき、インドではモンスーンの到来が遅れて、十分な雨が降りませんでした。そのままでは深刻な食糧不足になってしまって、膨大な食糧援助が必要になる、という状況でした。 そこで、私の方から大規模な食糧不足についての情報をアメリカ政府に送りましたところ、その次の年にアメリカは、その小麦生産量の5分の1をインドに送りました。飢餓が起こるのを防ぐために。当時、食糧の輸送としては史上初という規模の量でした。 【枝廣】 農務省での10年間の後、ワールドウォッチ研究所を設立されましたね。そのとき、何歳だったのでしょうか? どういうきっかけで、何を目的に、ワールドウォッチ研究所を作られたのでしょうか? 【レスター】 1970年代初めのころ、環境問題が私たちの将来を形作っていくことになるだろう、と認識するようになりました。そして、グローバルな環境問題に関する研究を行う研究機関が必要だと思ったのです。 そのころ、ロックフェラー・ブラザー・ファンドという財団がやはり、地球規模での環境問題を研究する新しい組織が必要だと考えていることを知りました。私たちはいっしょに研究所の設計を考え、彼らが立ち上げのための50万ドルの資金を出してくれました。そして、ワールドウォッチ研究所ができたのです。私はそのとき、40歳でした。いまも、ですけど(笑)。 【枝廣】 当時、ワールドウォッチのような環境に関する研究所は、ほかにあったのでしょうか? 【レスター】 当時は、地球規模での環境問題に関する研究機関はありませんでした。 【枝廣】 そして、その後長年にわたって、ワールドウォッチ研究所の所長として仕事をされてきました。所長というのはリーダーであり、マネージャーであるという2つの役目があると思うのですが、"リーダーたるもの"、"マネージャーたるもの"、資質として必要なのは何でしょうか? ワールドウォッチ研究所が成功してきたのは、あなたがどういうリーダー、もしくはマネージャーであったからなのでしょうか? その成功の秘訣をぜひ教えてください。 【レスター】 「リーダーシップとは、周りの人の持てるものを100%引き出せる能力である」という言葉がありますが、私はこれがリーダーシップのすべてを語っていると思います。 マネジメントとは、いろいろありますが、なかでも、"人"に関心を持っているということ、どのようにチームを作るのかをよくわかっていること、そして、皆がチームとして効果的に仕事ができるよう、皆が共有できるビジョンと共通の目標を作り出せることだと思います。よいマネジメントの2つの原則とは、良い人を雇用すること、そして任せるということです。ワールドウォッチ研究所を含めて、私自身、マネジメントにおいて掲げていた目標とは、そこに属している個人がどれほどのスピードで伸びていけるかを制約するものは、その人自身の才能とエネルギーレベルだけであるという環境を創り出すことでした。 つまり、組織が所属メンバーの成長のスピードの足かせには決してならない、そのような組織環境を創り出す、ということです。 【枝廣】 ワールドウォッチ研究所の所長として世界的にも有名な人物となったあなたですが、それでも最近になって、新しくアースポリシー研究所を作られました。その目的は何なのか、何をするために作られたのか、ぜひ教えてください。 【レスター】 講演の中も申し上げたように、ワールドウォッチ研究所の理事長になったらようやく何十年かぶりに考える時間ができたんです。そのとき、いまビジョンが必要なんじゃないか、と。環境的に持続可能な世界経済、すなわちエコ・エコノミーのビジョンです。そして、そのビジョンを推進する組織が必要なのではないかと思いました。 アースポリシー研究所はとても小さな組織ですが、エコ・エコノミーの革命を促進することだけに特化した組織です。 【枝廣】 そうすると、ワールドウォッチでやっていた基礎研究や、いろいろな情報の分析よりも、いまではビジョンを伝えて、人々を動かしていく、世の中を動かしていくということが大きな目的なのではないかと思うのですが、そうすると、ワールドウォッチ時代よりも、コミュニケーションが一つの鍵を握っているのだと思います。コミュニケーションという点で特に気をつけていること。教えてください。 【レスター】 もうひとつ気がついたのですは、今日では、環境問題に関する科学研究所がたくさんあります。幅広く環境問題を扱う研究所から、ある分野に特化した学術的な研究所まで、いろいろあります。 必要なことは、情報を取ってきて、それを人々がわかるような形にかみ砕いて出すことです。ですから、私たちはまず、出版社と協力し、『エコ・エコノミー』を世界の主要言語で出版しています。次に、コミュニケーション・メディアと協力し、第3にインターネットを活用して、情報発信を行っています。研究所のメーリングリストはその配信先が増えています。「エコ・エコノミー・アップデート」という配信を受けたければ、研究所のHPで登録することができます。先ほど、『エコ・エコノミー』英語版はオンラインで無料でダウンロードできるといいましたように、私たちの活動はすべてオンラインで、世界中のインターネットにアクセスできる人ならだれでも、アクセスできるようになっています。いま環境問題では世界中で非常に大きな難題に直面している時代ですが、この時代でとてもワクワクすることは、インターネットとメーリングリスト−−研究所では、数千人の宛先を持つ国際的なリストとなっています−−によって、気候に関してでも、エネルギーでも何でも、新しい展開があれば、すぐに情報を発信することができる、ということです。研究所のメーリングリストは、いま6000人ぐらいが登録していますが、このメーリングリストに登録している人が、それぞれのメーリングリストを持っていることがよくあります。ですから、私たちが送った情報を、自分のメーリングリストにアップします。すると、そちらのメーリングリストに登録している人が、また自分のメーリングリストを持っていて、転送する......ということで、サイバースペースにいったん入った情報は、どんどんと動いていきます。 ときには、私たちが朝9時に情報を送り出したあと、10時ごろには同じ情報が戻ってくることがあります。というのも、私たちの送った情報を受け取っただれかが、「これはいい!」と自分のメーリングリストで流したところ、たまたまその配信先に私たちの研究所も登録されていたというわけで、自分たちのところに戻ってきたりすることもあるんですよ。 【枝廣】 今のインターネットとかメーリングリストのパワーというのは、まさに今日ここに集まってくださった方もそういうが多いですし、私自身も規模は小さいながら、とても強く感じているところです。 今日ここにいらしている方は、共通の関心があってレスターのビジョンを共有したい、一緒にやっていきたいと思って来てくださっている方が多いのですが、たとえば、個人としてもしくはNGOとして、自分に何ができるのか、いまいちばんやらなくてはならないのは何なのか、ということを教えてください。 【レスター】 明らかに個人でできること−−この部屋においでの方は全員ある程度やっていらっしゃると思いますが −−は、自分のライフスタイルを変えることですね。たとえば、新聞紙や飲料容器のリサイクルをするとか、電気をもっと効率的に使うとか、自転車にもっと乗って自動車を減らそうとか、このような個人のライフスタイルを変えることができると思います。でも、それを超えてすべきことがあります。システムを変えていくことです。 そのシステムを変えるためには、政治的に積極的に動かなくてはなりません。たとえば、環境に責任のある候補者人を選挙で選ぶこと。または、自分で立候補することも含めて。 【枝廣】 ありがとうございました。まだまだ聞きたいことがありますが、そろそろ時間が来ましたので、第一部を終わりにしたいと思います。ありがとうございした。 レスター・ブラウン氏&エダヒロジュンコ対談 −2002年5月12日開催「第2回エコネットワーキングの会」より
 

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