Library:執筆・連載|原稿執筆・寄稿|e's Inc. http://www.es-inc.jp/lib/writing/ ja 2010-01-29T11:53:01+09:00 GDPに代わる幸福を測る経済指標とは? 後編 http://www.es-inc.jp/lib/writing/contribute/100129_115301.html GDPに代わる幸福を測る経済指標とは? [後編]
~持続可能な社会を実現するために~

前号では、「GDPはどんどん増えても、私たちの幸せは増えていない」ということを、GPI(真の進歩指標)という指標などで説明しました。それでも、いまだに、政治家も経済界も、「GDP成長」しかないという、GDP至上主義から脱却できていません。

でも、このようなGDP至上主義に対して、ユニークで本質的なアプローチをしている国があります。ブータンです。ブータンでは、GNP(Gross National Product:国民総生産)ならぬ「GNH」を国の進歩を測る指標にしようとして、近年注目を集めています。GNHとは、Gross National Happiness のこと。「国民総幸福度」です。

国の力や進歩を「生産」ではなく「幸福」で測ろうというこの「GNH」の考え方は、1976年の第5回非同盟諸国会議の折、ブータンのワンチュク国王(当時21歳)の「GNHはGNPよりもより大切である」との発言に端を発しているといわれています。物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさも同時に進歩させていくことが大事、との考えです。

1960年代~70年代初め、ブータンでは先進国の経験やモデルを研究しました。その結果、ワンチュク国王は「経済発展は南北対立や貧困問題、環境破壊、文化の喪失につながり、必ずしも幸せにつながるとは限らない」という結論に達したそうです。そこで、GNP増大政策をとらずに、人々の幸せの増大を求めるGNHという考えを打ち出しました。「開発はあくまで、国民を中心としておこなわれるべき」――GNHとは、ブータンの開発哲学であり、開発の最終的な目標なのです。

このGNHという概念のもと、ブータンでは、1)経済成長と開発、2)文化遺産の保護と伝統文化の継承・振興、3)豊かな自然環境の保全と持続可能な利用、4)よき統治 の4つを柱として開発を進めることになりました。

もともとは、幸福という概念は主観的なものですし、国際的に一律の尺度で測れるようなものではないため、GNHはあくまでも概念的なものとして考えられていました。しかし、GNHという考え方が知られるようになり、「GNHのように、指標として数値化できないか」という声が高まったこともあって、1999年にブータン研究センターが設立され、具体的な研究がスタートしています。

現在、まずはあくまでもブータン国内で通用する指標をめざして、幸福という概念を9つの要素に分けて検討しているそうです。その9つの要素とは、living standard(基本的な生活)、cultural diversity(文化の多様性)、emotional well being(感情の豊かさ)、health(健康)、education(教育)、time use(時間の使い方)、eco-system(自然環境)、community vitality(コミュニティの活力) good governance(良い統治)だそうです。

人々がどのように時間を使っているか、地域社会はどのくらいイキイキしているか――こういったことは、GDPにはほとんど影響を与えないでしょう(いえ、逆に、GDPの世界で、ただゆっくりしたり、地域社会のためのお金にならない仕事に自分の時間を使えば、それはGDPの足を引っぱる「不経済」な行動だと見なされてしまうでしょう!)。

でも、「本当の意味での国の進歩を測るのはどちらなのだろう?」と思いませんか? 自分の子どもや孫が大きくなるころ、あなたは「自分の国のGDPが増えていてよかった」と思うでしょうか、それとも「自分の国のGNHが増えていてよかった」と思うでしょうか?

ブータンは、国民一人当たりのGDPは低い発展途上国です。でも、ブータンの国土の26%は自然保存地区で、72%は森林地区になっています。ホームレスや乞食もいないそうです。ブータンでは「あなたは幸せですか?」という質問に対して、国民の97%が「幸せ」と答えたそうです(日本で同じ質問をしたら、何%の人が「幸せ」と答えるでしょうか?)。

「お金や物質的な成長を追い求めることは、本当に幸福のために役立つのか? 逆に、損なっていることはないか?」――ブータンのGNHの考え方は、私たちに「本当の目的」の問い直しを投げかけています。

私は昨年11月にブータンの首都ティンプーで開催された「第4回GNH国際会議」に出席しました。会議には25カ国から90人が参加しました。

会議の初日には、議会民主制に移行して初めての首相を務めているジグミ・ティンレイ氏が基調講演を行いました。首相は、その前の週の戴冠式で第5代国王が「GNHを進めていくことは自分の責任であり優先課題である」と明言されたことを挙げ、また自分の言葉でも国政の基礎にGNHがあることを繰り返し、力強く語りました。

「貧困緩和のために経済成長が必要だと言いますが、それはまるで症状を治すために患者を殺すようなものではないでしょうか。再配分を考えない限り、経済が成長しても貧困緩和にはならないのです」。

政府がGNHを推進するといっても、国民に対して幸せを約束するわけではありません。国家・政府として「個人がそれぞれGNHを追求できる条件を整える」ことを約束しているのです。

会議の大きな目玉はブータン研究所からのGNH指標の発表でした。「GNHという考え方はわかっても、それをどのように測るのか?」に世界の注目が集まっているのです。先述の4つの柱、9つの要素について、72の変数を選んでおり、国民調査の結果の発表や議論が行われました。

もっとも、GNHを提唱しているからといって、ブータンが理想郷だというわけではありません。水道などインフラの未整備のほか、近代化にまつわるさまざまな問題もありますし、特にテレビが入ってきてから、若年犯罪の増加などが憂慮されています。

GNHの指標化も、まだ初歩的な段階です。指標化・数値化することと、「測れないものにも大事なものがある」というホリスティックな考え方をどのように折り合いをつけ、ブータンにも世界にも役立つものにしていくのか─。これからの展開に大いに期待して見守っているところです。

そして、日本でも、会社設立の本来の目的である真の幸福を実現するために、事業を拡大しないことを決め、「成長しない方針」を採り入れている会社がいくつも出てきています。

このような動きが、日本社会の大きな変革につながるのかどうかは、まだわかりません。しかし、環境破壊や地球環境問題を引き起こしてきた「より速く、より多く、より大きく」という成長至上主義に対する大きなポイントとして、日本のスロームーブメントやユニークな企業の取り組みから目が離せないことだけは確かです。

そして、他の先進国でも、同じような動きが出てきています。英国政府の組織である「持続可能性委員会」はこの3月に、「Prosperity without Growth(成長なき繁栄)」というレポートを出しました。これは「経済成長に頼らない持続可能な繁栄のモデルを作ろう」という試みです。

また、フランスではサルコジ首相が、「人々の日常的な幸せの感覚と、政治家や統計学者が経済について語っていることのギャップが大きくなっており、それが世界中で政府や政治家への不信を生み出している。それは民主主義にとって極めて危険なことだ」という問題認識から、2008年2月にノーベル経済賞を受賞した経済学者を含む20人ほどのチームを作って、調査・研究を委託、そのレポートが今年の9月に発表されました。

このプロジェクトが始まったときには、だれもその後に、金融危機・経済危機が起こるとは予測していませんでした。しかしこの危機があったがゆえに、この委員会の活動がさらに重要なものとなりました。なぜなら、世界は、より持続的なやり方で成長する方法を求めるようになっているからです。

レポートでは「経済の主眼を、単なるモノの生産から、より幅広い全体的な幸福へ広げることが重要である」としています。それには健康、教育、安全といったものも含まれます。「政府が自国経済のGDPを膨らますことに中毒になっていることが、地球を危険にさらしている」とサルコジ氏。

主要国の政府や首相から、「単なる経済成長ではなく、その目的であったはずの、本当に大切な社会の幸福・福利について考えていこう」という動きが出てきたことは、とても心強いことです。

12月中旬に日本語版が刊行されるアル・ゴア氏の『不都合な真実』の続編、『私たちの選択』にも、ロバート・F・ケネディの40年前の言葉が引用されています。

「ダウ・ジョーンズ工業株平均や国民総生産(GNP)は、環境保全効果や家族の健康、教育の質などを考えに入れていない。GNPは、私たちの機知や勇気も測っていなければ、知恵や学び、思いやりや国への献身も測ってはいない。一言で言えば、GNPはすべてを測っているが、それは人生を価値あるものにしているもの以外のすべてだ」。

]]>
edahiro 2010-01-29T11:53:01+09:00
GDPに代わる幸福を測る経済指標とは? 前編 http://www.es-inc.jp/lib/writing/contribute/100129_115154.html GDPに代わる幸福を測る経済指標とは? [前編]
~持続可能な社会を実現するために~


○「何を測るか」が行動に影響を与える

2001年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ジョセフ・スティグリッツ氏は、「パフォーマンスがより重視される社会では、数字が重要です。私たちが測るものは、私たちの行動に影響を与えるのです。もし間違った指標を使っていれば、間違ったことのために努力をするようになるでしょう」と言っています。

「何を測るかが私たちの行動に影響を与える」 ――これは含蓄の深い言葉です。

さて、私たちは、幸せな暮らしを送りたいと思っています。そして、一人ひとりが幸せな暮らしを送れる社会であってほしい、と願っています。

そうならば、私たちの社会が進歩しているのかどうかを測るために、私たちはどのような物差し(指標)を使っているでしょうか?。

多くの場合、「国内総生産」(GDP)がその指標として使われています。世界各国は「GDPを大きくする競争」にしのぎをけずり、マスコミはしょっちゅう「GDPが上がった」「下がった」と報道し、政治家や経済界からの発言を聞いていても、GDPの成長率は彼らの唯一のといってよいほどの関心事であることがわかります。

そして、私たち市民も「GDPが上がった」と聞くとうれしく思い、「下がった」と聞くと、困ったなと思う。ほとんど反射的に、そんな反応をしているのではないでしょうか。「GDP成長率が十分ではない」となれば、政治家は何らかの手を打とうとしますし、経済界のみならず、一般の人々も(その多くは)「GDPは成長し続けるべきもの」と信じているので、GDPを何とか押し上げるような対策を打つことを政府に期待し、圧力をかけます。

では、たとえば、「子どもの成長」――子どもがちゃんと成長しているのかどうか――を知ろうとするとき、私たちは何を測るでしょう?。

子どもが赤ちゃんの頃はよく、体重で成長ぶりを測ります。赤ちゃんを体重計に座らせて、「先月より○グラム増えたわ。ちゃんと大きくなっているわね」と安心したり、よその人と「うちの子はもう○キロなんですよ」なんてほほえましい会話を交したりしていることでしょう。

ところで、赤ちゃんの体重は、増えなかったら心配になりますが、だからといって、どんな増え方でも増えればよい、というものでもありません。1日に1キロずつ増えていったら、大変なことになります。赤ちゃんも急激すぎる体重増加に体を壊すでしょうし、おっぱいが足りなくて、お母さんはがりがりにやせてしまい、倒れてしまうかもしれません。

赤ちゃんの体重については、「増えた方がよいけど、適正な増え方がある」ことをみなが当然だと思っています。その点でいえば、GDPについてはどうでしょう?。「今のGDPの成長率は大きすぎるのではないか?」「GDPにも適正な増え方がある」といった議論はあまり聞きません。

むしろ、GDPに関しては「とにかくGDPが増えればいいのだ」という、かなり乱暴で短絡的な考え(期待?)が蔓延しているように思えます。適正な成長でなければ、お母さんのおっぱい(GDPを生み出す原材料やエネルギーを提供しているさまざまな資源)が枯渇してしまうだけではなく、お母さん自身(地球)もがりがりにやせて倒れてしまうのは、人間の赤ちゃんの場合と同じなのですが。

そして、子どもの成長を測ろうとするとき、子どもが大きくなってからも、高校生や大学生になっても、体重でその成長ぶりを測るでしょうか?。当然、そのようなことはないはずです。子どもが大きくなるにつれて、体重に代表される「身体」の成長ではなく、知性や品性、徳性といった「知性や精神性」でその人の成長ぶりを判断するようになってきます。

つまり、子どもの成長段階に応じて、成長を測る適切な物差しが違うのです。子どもの成長だけではなく、私たちが社会の進歩を測るときにも、その社会の成長段階(発展段階)に応じて、それぞれふさわしい物差しを使う必要があります。「何を測るか」は、測りたいものや状況の変化とともに、見直していくべきなのです。

でも、今の私たちは「いつでも・どこでも・だれにでも(どの国にでも)」、画一的に(悪く言えば、バカのひとつ覚えみたいに)GDPを物差しにしています。相手の発展段階や状況などをまったく考慮に入れない、融通の利かない「単一物差し制」「GDP至上主義」のようです。

さて、冒頭登場したスティグリッツさんは、「私たちが測るものは私たちの行動に影響を与えるのです。もし間違った指標を使っていれば、間違ったことのために努力をするようになるでしょう」に続けて、このように述べています。「GDPを増やそうと懸命になることで、市民はより暮らし向きが悪くなる社会を作ってしまうかもしれないのです」。

GDPを社会の指標にすると、みんなGDPを増やそうと一生懸命になる(いまそのとおりの状況ですね!)。でもそのせいで一般の人々が幸せになれない社会を作ってしまうかもしれない。それは、目的(社会の幸せ)に対して、間違った指標(GDP)を使っているからだ、といっているのです。

私たちは、何となく「GDPが増えれば、経済が大きくなるってことだから、自分のお給料も増えるだろう。そうすれば、使えるお金が増えるから、自分はより幸せになるだろう」と思っているのですが、スティグリッツさんは、「GDPと幸せは別物だ。別物のGDPを追いかけても幸せになれないかもしれない」と言っているのです。さて、これはどういうことなのでしょうか?。そもそもGDPって何なのでしょうか?。GDPとは何を測っているものなのでしょうか?。

○GDPでは幸せを測れない

GDPとは、ある国で、1年間に新しく生みだされた生産物やサービスの金額の総和のことです。それが何であっても、モノやサービスが生み出されお金が動けば、GDPは増えます。そのモノやサービスが、私たちや社会の幸せにつながっていても、つながっていなくても、関係ありません。GDPは、人間の幸福に役立つ・役立たないに関わらず、生み出されたモノやサービスの合計を金額で表したものです。

ということは、環境汚染が進めば進むほど、交通事故が起これば起こるほど、暴力事件が起これば起こるほど、GDPは増えるということです。なぜなら、環境汚染によって病気になった人や交通事故にあった人の医療費はもちろん、暴力事件に投入される警官の超過手当なども、「国の経済成長」の一端として合計されるからです。ですから「GDPが増えた」といって喜んでいてはいけません。増えたのは喜ぶべきGDPなのか、そうではないのかを区別しなくてはならないのです。

もうひとつ、「GDPにカウントされていないけど、幸せをつくり出している」という活動もあります。たとえば、家事や育児です。お父さんやお母さんが子どもに絵本を読んであげる――これは素晴らしい幸せをつくり出しています。でも、お金は一銭も動きませんから、GDPは増えません。ボランティア活動も同じです。どんなに汗を流して山に木を植えたり、町の清掃をしたり、ほかのどんなボランティア活動をしても、お金が動かないかぎり、GDPには影響を与えないのです。

「GDPには、幸せを壊すものも入っている一方、幸せにつながるものが入っていない」としたら、本当の意味で、社会の進歩を測る指標とはなり得ません。GDPは、単に経済の中で動くお金の量を測っているにすぎないのです。

ところで、興味深いエピソードがあります。GNP(国民総生産)を開発したサイモン・クズネッツ自身が、1943年に米国議会で「GNP(GDP)という形で推定された所得からは、国の豊かさはほとんど推し測れない」と証言したことがあるそうです。開発者本人には、それが何を測り、何を測っていないかがわかっていたからです。しかし残念なことに、人々は、その警告に耳を傾けず、わかりやすい指標だと飛びついて、本来測れないものまで、測ろうとしてきた、ということなのです。

○社会の進歩や幸せを測ろうとする指標

では本当の進歩を測るには、どうしたらよいのでしょうか?。「進歩」や「幸せ」のような抽象的なものを数字としてとらえることができるのでしょうか?。

1960~70年代に、それまでの経済最優先主義から深刻な公害や環境破壊が明らかになり、単なる経済だけではなく、社会や人々の暮らしにも目を向けた新しい指標の検討が始まりました。

世界的な経済学者であるハーマン・デイリーやジョン・コップらは1989年に、ISEW(Index of sustainable economic welfare:持続可能な経済福祉指標)という指標を提唱しました。自然環境の汚染が経済の持続可能性を行うコストであると認識した上で、GDPのように単純なお金の取引を積み上げた指標ではなく、大気汚染や水質汚濁、騒音公害、湿原や農地の喪失、オゾン層の減少などのコストを差し引くことで、環境汚染の経済的な損失を考慮に入れた指標です。

1995年には、このISEWの開発者の一人であるクリフ・コブの協力のもと、リディファイニング・プログレス(Redefining Progress:「進歩を再定義する」の意)という団体が、GPI(Genuine Progress Indicator:真の進歩指標)という指標を提案しました。

真の進歩とは「人の幸福を増やすこと」として、ISEWをさらに発展させて、「人の幸福に影響を与える項目」を加えました。日本や米国をはじめ、世界10数カ国でGPIが計算されています。

GPIはどのように計算するのでしょうか?。GDPの個人消費データをベースとしますが、「所得増加の効果は豊かな人より貧しい人のほうが大きい」という経済理論と常識に基づき、貧しい人への所得分配が増えればGPIも増えるといった調整をします。

そして、家庭やボランティア活動など、現在のGDPには入っていないけれど、幸せをつくり出している活動の経済的貢献について、だれかを雇ってその仕事をした場合のコスト計算をベースに計算し、足します。逆に、環境破壊や環境汚染、交通事故、犯罪、家庭崩壊など、幸せや進歩につながっていない活動に伴って動いたお金や、健康や環境への被害額を計算して、引きます。こうした調整を加えて計算します。

人口一人当たりのGPIと人口一人当たりのGDPを並べたグラフを見ると、日本でも米国でも、ある時期(1960~70年代)までは、GDPもGPIも、並行して伸びています(グラフ参照)。ところが、そのあとは、GDPのほうは右肩上がりに増えていくのに、GPIのほうは増えなくなっています。増えないどころか、減っている場合もあります。

つまりGDPはどんどん増えているけど、私たちの幸せは増えていない、場合によっては減っているかもしれないのです(実感に合うと思う人も多いのではないでしょうか?)。そうだとしたら、いつまでもGDPを追い求めるような経済政策や国づくりをしていてよいのでしょうか?。

でもいまだに、マスコミでも、政治や経済界でも、「GDPの成長をめざす」「成長しないとだめだ」といっています。ちなみに、何であっても3%の成長が24年続くと、2倍の大きさになります。必要な人的資本、生産資本、金融資本、自然資本などを考えても、これから人口が減少していく状況を考えても、24年後に日本経済が現在の倍になるということは、おそらく考えられないのではないでしょうか? もしくはその必要があるとは思えないのではないでしょうか?

でも、日本だけではなく、世界のほぼすべての国が、目先のことしか見ておらず、いまだに「最低でも3%成長」とかけ声を掛け、景気浮揚策として短期的な投資をする、という社会経済になってしまっているのです。

実は、このようなGDP至上主義に対して、ユニークで本質的なアプローチをしている国もあります。次回の12月号ではその考え方や取り組みをご紹介しましょう。どうぞお楽しみに!

]]>
seki 2010-01-29T11:51:54+09:00
低炭素社会と原子力 http://www.es-inc.jp/lib/writing/contribute/091111_173423.html 低炭素社会は手段である

今日,日本のみならず世界中で「低炭素社会」へシフトの必要性が叫ばれています。しかし,低炭素社会は実は手段にすぎません。「低炭素社会」は確かに重要ですが,今の日本では,あたかもそれが目的であるかのように―手段が目的化してしまうことはどこでも起こり得るわけですが―なっているのではないかと思っています。
低炭素社会が手段だとすると,目的は何でしょう?
それは「持続可能な社会」です。持続可能な社会にするために,低炭素社会をつくらないといけない。つまり,社会のCO2を減らさないといけない,ということです。
では,低炭素社会をつくる上位の目的である「持続可能な社会」とはどのような社会なのでしょうか?

持続可能な社会に必要な2 つの要素

必要な要素が2つある。私はそう考えています。1つは「地球の限界の範囲内で営まれる社会」ということです。地球には限界があります。さまざまな資源など地球が提供できるものにも,二酸化炭素や廃棄物など地球が受け入れられるものにも,限界があります。その地球の限界の範囲内で営まれる社会でないと,持続可能ではありません。
2つめの要素は,その中で「本当の幸せをつくり出す社会」だということです。単なるGDP や経済の拡大・成長を求めるのではなく,本当の幸せは何か,幸せにつながっている経済やGDP と,そうではない経済やGDPを区別して,経済成長至上主義ではなく,本当の幸せをつくり出すことを社会や経済の目的とすることです。この2つの要素があってはじめて,持続可能な社会になるのだと考えています。
そう考えると,「低炭素社会」だけを考えていては落ちてしまうさまざまな視点があることがわかります。たとえ低炭素社会に資するものであっても,温暖化以外の危険や危機につながるものであったとしたら,持続可能な社会のためにはならないということもあるのです。

地球の限界を超えてしまっている私たち

ここでは,持続可能な社会に必要な最初の要素を取り上げたいと思います。私たちの社会は,「地球の限界の範囲内で営まれる社会」でしょうか? 残念ながら,いまの私たちは,地球の範囲を超えてしまっています。「世界の人間活動を支えるために,地球は何個必要か」を示すエコロジカル・フットプリントという指標があります。その最新の数字を見ると1.4となっています。つまり地球は1個しかないのに,いまの人間活動を支えるために,地球は1.4個必要になっているのです。
地球は1個しかないわけですから,1.4というのは不可能です。これがいま短期的に可能になっているのは,私たちが過去の遺産を食いつぶし,未来世代から前借りをしているからです。持続可能ではありません。
現時点ですでに地球の限界を超えていますから,遠からず限界の範囲内に戻らざるをえません。そのとき,限界を超えた地球からの強制的な是正の力(深刻化する温暖化や食糧不足,生態系の崩壊など)によってではなく,私たち人間が意識的に持続可能な社会に切り替えていくことによって,限界の範囲内に戻ることを願っています。
温暖化や低炭素社会についていえば,現在,私たち人間は化石燃料を燃焼することで,1年間に72億トン(炭素換算)のCO2を排出しています。それに対して,地球が吸収できる量は,森林が9億トン,海洋が22億トンと合わせて31億トンです。地球が吸収できる31億トンという限界をはるかに超えて排出してしまっているため,大気中にCO2がたまって温暖化が進んでいるのです。

低炭素社会の作り方

このような状況で,社会の排出するCO2を減らし,低炭素社会を作っていく必要があるわけですが,その作り方には3つのアプローチがあると考えています。
1つめのアプローチは,「状況は変えず,技術によって高炭素○○を低炭素○○に置き換える」というものです。
エネルギーでいえば,現在のエネルギー需要の増大はそのままにして,エネルギー燃料を入れ替えることで低炭素化を図ろうというアプローチです。燃料転換ですね。たとえば,石油や石炭よりは天然ガスがいい。化石燃料よりも再生可能エネルギーや原子力がいい。石炭ならクリーンコールがいい。需要の増大はそのままにして,主に技術によって燃料転換を図り,低炭素化を図ろうというものです。
2つめのアプローチは,ライフスタイルなどを変えることで,需要を少し減らしつつ,やはり技術による解決を待つというものです。
エネルギーでいえば,「こまめに電気を消しましょう」という呼びかけなどで,日常生活での行動を変えることで,消費量を減らす努力をする。それでもまだまだエネルギーは必要ですから,やはり主に技術的な解決策を求めて,エネルギー転換を図っていくことになります。
3つめのアプローチは,より根本的にそのものを考え直すというものです。つまり,地域のあり方や一人ひとりのあり方,エネルギーのつくり方や,エネルギーの作り手そのものまでを考え直し,変えていくというやり方です。

メンタルモデルに気づき,ゆるめること

このときに大事なことは,それぞれが持っている「メンタルモデル」に気づき,問い直すことです。メンタルモデルとは,私たちがいろいろなものについて「こういうもんだ」と思い込んでいるものです。「自分はこういう人間だ」「うちの会社はこういう会社だ」「原子力とはこういうものだ」「エネルギーとはこういうものだ」「社会とはこういうものだ」「住民とはこういうものだ」それぞれ私たちは,意識,無意識の中に思い込みを持っています。
たとえば,「電力は電力会社がどこかでまとめて効率よく作り,各家庭に運んでくれるものだ」というメンタルモデルを持っている人は多いことでしょう(これまでそうだったわけですから)。でも,そうでなくてもよいかもしれない,それぞれの地域がそこにある資源を使って作ったっていい,発電効率よりも大事なものがあってもよい,と硬直化したメンタルモデルをゆるめることができます。
そういう意味でいうと,太陽光発電は「それぞれの家庭や会社で発電できるんだ」という例証として,エネルギーに対する社会のメンタルモデルを変える大きな起爆剤になっていると考えています。

低炭素社会とはパラダイムシフト

いまは低炭素社会というと,技術革新ばかりが注目されていますが,その真髄はパラダイムシフトなのだと思っています。もしかしたら,そのパラダイムシフトを認めたくなくて,技術的な解決策に走っているのかもしれません。
ひとつのパラダイムシフトは,「資源やエネルギーを使いたいだけ使うのではなくて,地球の限界の範囲内で折り合いをつけて使っていく」というものでしょう。そして,「どこかでまとめてつくって,送電線で配るのではなくて,それぞれの地域や人が必要な量だけ自分たちでつくる分散型へ」というシフトです。そういった時代にいま移行していると思うのです。
そう思うと,低炭素社会のエネルギーとは,それぞれの地域の特性を活かした,地産地消型のエネルギーになっていきます。温泉がある地域には地熱があるでしょうし,森林がある地域はバイオマスがあるでしょう。太陽光,太陽熱,風力,小水力など,それぞれの地域がその地域にあるエネルギー資源を使っていくようになります。
このようなパラダイムシフトの枠組みから見るとき,原子力というのは,「中央で大きくつくって配ります」という旧来型のメンタルモデルのそのままだなあとよく思います。
原子力関係の方はよく「自然エネルギーがいい」という発言を聞くと,「太陽光発電で100万キロワット発電しようと思ったら,山手線内全部に敷き詰めないといけないんですよ。そんなことができますか」とムキになっておっしゃるんですね。自然エネルギーはそれぞれ必要なところで必要なだけ作れるのが特徴なのであって,それでもやはり「まとめてつくれるかどうか」で見てしまうんだなあ,と思うのです。

これからの時代

これまでは,大量生産・大量消費の時代でした。そこではエネルギーをたくさん使って,CO2をたくさん出します。温暖化の問題が出てきて,「これではまずい」と,
いま移行を進めていますが,大量生産,大量消費は変えずに,大量リサイクルを追加し,省エネ・再生可能エネルギーなど技術によってCO2を減らそうとしているのが現状です。これは終点ではなく「途中」にすぎません。これからは,本当の幸せのための「足るを知る生産・足るを知る消費」の時代です。エネルギーの必要量そのものが減っていきますから,低炭素化技術とあわせて,CO2を劇的に減らしていくことができます。
このようなシフトを考えたときに,原子力発電は,核廃棄物や地震国日本での操業,社会とのコミュニケーションなどの問題に対応したうえで,産業用に特化したエネルギー源になっていく可能性があるのではないかと考えています。家庭用は,それぞれの地域でそれぞれの人々が手綱を握ってつくっていく。しかし,産業用の大量の電力需要を減らし,電源を大きく切り替えていくには時間がかかるでしょう。その間の低炭素型の中継ぎとして,原子力の役割があるのかもしれません。

(2009年5月20日記)

]]>
seki 2009-11-11T17:34:23+09:00