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執筆・連載|原稿執筆・寄稿
「癒しのプロセスとしての循環型社会」
-宣伝会議『環境会議』2004年3月号
特集「本来あるべき社会の姿 循環型社会をどのように創っていくか~」

「循環型社会」という言葉について

環境に関わる国際会議に出ていると、日本人出席者はよく「循環型社会」という言葉を口にする。そのたびに同時通訳をしている私は、しっくりくる英語がなくて困ってしまう。師事するレスター・ブラウン氏やその他多くの欧米人に「循環型社会とは、こういう感じのものなのだけど、英語では何と言えばいいのだろう?」と聞いて回ったことがある。たいていは、a recycling-based society などの答えが返ってくる。しかし、これでは物質的な循環のみを指していて、「循環」に込められている精神的な要素はすっぽり落ちてしまう。

「循環」には、単に「廃棄物をリサイクルさせる」ということではなく、長持ちするように考えて作られた製品を、何度も繰り返し大切に使い、どうしても不要になったら他のものに形を変えるなりして、何もごみにしたり捨てたりすることなく、すべてが活かされ切る、という意味合いが込められていると思う。循環型社会とは、「もったいない」という思いや精神を形にした社会なのである。

「もったいない」とは「もったい」が「ない」ということだが、もったい【勿体・物体】とは物の本体の意で、「もったいない」を辞書で引くと「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」という意味が載っている。「生きとし生けるもの、石や鉱物などの命のないものであっても、あるがままでそれぞれの価値を持ってこの地球に存在している。その潜在的価値を思う存分、可能な限り発揮せずに朽ちていくことは、何とも口惜しい」という思いである。(ところで、「もったいない」という言葉は「循環型社会」以上に英語にしづらい。「お天道様に申し訳ない」とか、「生かされている」とか、「輪廻」とか、そういうニュアンスを含めて一言で置き換えられる英語の単語はないのである)

私は通訳をしているとき、「循環型社会」を思い切って「a sustainable society(持続可能な社会)」と言い換えてしまうことがある。「モノを循環する」という手段ではなく、そのことによってめざしている社会そのものを伝えるのである。(ところが、「持続可能な社会」という日本語は市民権を得ていない。600人の学校の教師を対象に講演をしたとき、「持続可能な、という言葉を知っている人?」と尋ねたところ、挙がった手はたった1本だった)


「循環」

カーシェアリングの考え方が最初に出たのは、1950年代はじめのことでしたが、実施されたのは1970年代になってからで、ビジネスとして成り立つようになったのは1980年代末だといわれています。

最初のビジネス成功事例としてよく紹介されるのは、1987年に当時40歳だったワーグナーさんがスイスで立ち上げたカーシェアリングです。いまでは、スイス国内の300市町村に700ヶ所の基地を持ち、1400台の自動車を所有して、3万人の会員にサービスを提供する世界最大のカーシェアリング組織となっています。

●現状 「循環」は、個人やグループ、地域など広がりや規模はさまざまであるが、基本的に個別の取り組みとして考えることができる。それに対して、「循環型社会」は、循環型というあり方に向かって、ある社会のしくみや構造を変えていく、ということである。ここでは、そのふたつを区別して、それぞれのために必要なことを書いてみたい。

「循環」とは、表面的にはモノの流れをつなぐことであるが、実は「思いをつなぐこと」である。ある旅館組合が廃棄物処理費用の値上げに困って、生ごみの回収・堆肥化を始めた。生ごみを出す旅館と、それを堆肥にする工場と、できた堆肥を使う農家がつながり、旅館→生ごみ→堆肥工場→堆肥→農家→有機野菜→旅館という循環ができた。地元で作る有機野菜を使った料理は旅館でも評判がいいと言う。

この循環は、「きちんと分別してくれないと困る」「人手もないのにそんな細かく分けられない」「また貝の殻が入っていた」「シーズンには同じ野菜を大量に収めてもらわないと困る」「そんなことは無理だ」……という当事者のぶつかりあいと「ではどこで折り合いをつけるか」というすりあわせの長いプロセスを経て、やっと実現したものである。

「思いをつなぐ」ための第一歩は、想像力を発揮することだ。それによって、一個の自分から地域や世界や地球へ、現在から過去や未来へと、つながりが広がっていく。たとえば、自分たちの使うモノや買う物の「来し方行く末」にちょっとでも思いを馳せるようにすれば、今は見えにくいさまざまなつながりを見えてくる。自分の「指先ひとつ」の行動や選択がどのような環境負荷を与えているのか感じられるようになる。

そして、循環の環を何重にも重ねていくこと。「循環型」に近い英語に「close the loop(環を閉じる)」という言葉がある。この環(ループ)は、個人のレベルから、家庭やオフィス、事業所や企業、業界や社会と、いろいろなレベルで何重にも重ねていくことができる。そして、ループが小さいほど効果的・効率的に循環ができる。移動に必要なエネルギーや資源が少なくてすむからだ。

そして、ループは「環」であるから、入口だけではなく出口が必要だ。出口がないと詰まってしまう。たとえば「古紙リサイクル」の循環の環を閉じるには、古新聞を回収所に出すだけではなく、再生品を購入しなくてはいけないのである。

スイスは、上述したように、「組織的なカーシェアリングが最初に発達した国」で、現在最大の会員数を誇っています。スイス、ドイツ、オランダ、オーストリアに合計で7万人の会員がおり、会員数は毎年高い伸び率で増えているそうです。

オーストリアのある州では、タクシースタンドのような「カーシェアリング・スタンド」があるとか。駅レンタカーみたいに、駅構内の場所をちょっと使って、「駅カーシェアリング」が増えたら、使いやすくなりそうですね。

また別の統計では、ヨーロッパの450都市で、15万人の会員がおり、「カーシェアリング・ビジネス」は2億ドル規模の産業で、しかも成長中!ということです。ヨーロッパの次に盛んなのがカナダ、そしてこの半年ぐらいは、アメリカの各地でも盛んになってきた様子がわかります。

ちなみにアメリカで最初にできたカーシェアリングの会社は、オレゴン州ポートランドにある会社で、1998年に立ちあがりました。その他に盛んなのは、シアトル、サンフランシスコ、シカゴなどです。


「循環型社会」

個人であれ家庭であれ、コミュニティであれ、自治体であれ、「循環」の取り組みが最大限に効果を発揮するのは「それらが全部あわさって、日本はどこへ向かっているか」というビジョンが明らかな場合である。各地で素晴らしい循環づくりの取り組みが展開しているが、たとえば「50年後の日本の姿」が共有されていてはじめて、「そこへ行くために、私はここをやるよ」「この町ではここから取り組むよ」という、場当たり的、目の前の問題対処型ではない、長期的な戦略的取り組みが可能になるのである。

その「ビジョン」がいまの日本にはない。これまでの経緯や現在の事例はある。しかし、この先、私たちはどこへ行こうとしているのか、どこへ行かなくてはならないか、私たちのめざす社会はどういう姿をしているのか、というビジョンがまるで北極星のごとくあらゆる取り組みを煌々と導いてはじめて、重複や漏れや偏りのない、バランスのとれたもっとも効果的にして効率的な進路を私たちは進むことができる。

そのビジョンの中では、「この循環」「あの循環」の個別最適化をはかるのではなく、全体としてどうするか、というホリスティックな考え方が必須である。循環というと、やもすると廃棄物をどうリサイクルするか、という話になるが、食糧の60%を輸入に頼っている国で、いくら食品リサイクル法を作ろうが、廃棄物処理費を値上げしようが、根本的に「大量に輸入している食糧の残りや生ごみでいくら堆肥を作っても、それを使う農地がない」という問題が解決されない限り、根本的な解決には至らない。同様に、家電リサイクル法はできたが、テレビの大部分が海外で組み立てられ輸入されている現状で本当の循環になっているのだろうか?


最後に

「循環型社会」や「循環」をめざす取り組みは、環境問題のためのみならず、私たち人間にとっての「癒しのプロセス」ではないかと思っている。経済成長一辺倒の社会では、目の前以外のことに思いを馳せたり、お互いの思いを重ねるために時間をかけてやりとりをしたりすることは「不経済で不効率」として切り捨てられてきた。効率やスピードを追い求めるあまり、自分自身の心や家族、地域社会、自然や地球とのつながりを分断してしまっている人も多い。

遠回りに聞こえるかもしれないが、「大事なつながりを見直し、つなぎ直すこと」が、近年増加しているうつや家庭問題、教育問題や社会問題の解決につながる。「循環型社会」への取り組みは、単に廃棄物をリサイクルすることではなく、私たち人間が人間らしさを回復するための取り組みでもあるのだ。

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