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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2007年10月09日

「ガンダムエース」より富野由悠季監督との対談 前編(2007.10.07)

大切なこと
 

9月26日発売の雑誌「ガンダムエース」(角川書店)11月号に、富野由悠季監督との対談が載っています。インタビュー企画「教えてください。富野です」というコーナーです。

「こんな時代になんで平常心でそんな活動ができるのか?」と切り出されたガンダムの監督さんとのお話はとても面白く、快諾を得て、ご紹介したいと思います。(読みやすさのため改行を入れさせていただいています)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

教えてください。富野です VS枝廣淳子


60億人の大量消費行為は、ひょっとすると戦争よりも悪かもしれません。しかし、僕らの世代は新型車を買うのが夢で、その感覚をぬぐうことができないまま地球を消費し続けてきました。

枝廣淳子さんが訳された『成長の限界 人類の選択』を読むと、地球の容量には限りがあると思い知らされます。また、彼女がペットボトルや携帯電話など16品目の使用後をルポした『回収ルートをたどる旅』は、無駄にモノを消費することの罪とそれを少しでも有効活用しようと頑張っている人たちがいるという事実を教えてくれます。

しかし、政治家たちは経済成長を語ることに何の疑問も持たず、人口が減少することが国家的危機感を持って語られます。彼らはいまだ無限の地球という概念しか持たないオールドタイプです。枝廣さんがおっしゃるように、問題は人ではなくシステムなのだとしたら、彼らを動かし、現在のシステムを変えるにはどうすればいいのでしょうか。


環境問題を解決するには、経済成長を遅らせなければ

富野 僕は最近、新商品のCMを見るだけで憂鬱になるんですよ。これ以上消費を喚起してどうするんだって。そういう人間なので、枝廣さんに一番お訊きしたいのは、何で平常心を持って『成長の限界 人類の選択』のような本を訳せたり、『回収ルートをたどる旅』のような現実を見ていられるのかということなんです。

枝廣 私にとって環境問題に取り組むということは、実は一つの切り口でしかないんですね。環境ジャーナリストの名刺を持っていますし、今はほとんどが環境絡みの仕事をやっていますが、大学時代は心理学を勉強していました。

私は、心の問題も環境問題やその他の社会問題も根は同じだと思うんです。その根源的な原因は、大事なものとのつながりが切れてしまうということです。自分と自分の心のつながりが切れてしまうと鬱になってしまったり、とても苦しくなる。自分と地球のつながりが切れてしまうと、ゴミをどこに捨てようが気にしなくなって、それが環境問題に発展する。

私のやりたいことは、大事なつながりを取り戻すということで、環境問題はそれが最も見えやすいので、今は環境をやっているんです。例えば、『回収ルート〜』の取材は、私にとっては非常に楽しい仕事でした。全国各地の小さな町工場で汗をかきながら、その大事なつながりを必死に保とうとしている人たちがいる。そういう人たちの姿に触れることが私にとってはすごく励みになるんです。

富野 なるほどね。

枝廣 もう一つ、今、環境問題を切り口に活動していて思うのは、大げさな言い方になりますが、これは幸せを取り戻す仕事だなということです。環境問題と幸せの問題というのは、私のなかでは同じなんです。本当に大事なことを思い出して、みんながそれを大切にできる社会になれば、環境問題は自然と解決すると思うんです。

今の社会…効率優先で、たくさんモノを作って、たくさん売って、そのスピードで勝負するような世界では、大事なことを考えるために立ち止まる時間がとれないんですよ。そうすると、やはり人の心もすさむし、環境も荒れてしまう。『成長の限界〜』を翻訳したときに、一番学んだのがそのことなんです。さまざまな問題を解決するには、誰もが経済の成長が一番大事だと言います。それは先進国でも途上国でも同じです。経済が安定、もしくは発展して、初めて環境のことを考える余裕ができるんだと。

『成長の限界〜』の著者たちがシミュレーションの末に得た答えは逆でした。たしかにカギは経済の成長にある。しかし、問題を解決するためには成長を加速させるのではなく、遅らせなければいけないんだという結論に達したのです。

例えば、私も呼びかけ人代表をしている100万人のキャンドルナイトというイベントがあります。夏至と冬至の夜に電気を消して、ローソクの明かりでゆっくりとした時間を過ごそうというもので、今では、800万人を超える人々が参加している。

こういうことを通じて、成長を加速するのではなく、スローな方向へと変えていけないかと思っているんですね。もちろん、環境に取り組んでいる方には自然を守るというような活動をしている人もたくさんいますが、私は、経済活動の方向性や人の心をもっと幸せなほうへと向けられるんじゃないかなという、その切り口として環境をやっている感じなんです。

もちろん、その活動を通して心痛むような場面を見ることもあるし、現実のひどさに怒りを覚えることもあります。ただ、もともとが性善説の楽観主義者なので、今はひどい状態だけどどうしようもなくなる前に何とかなるだろうと思ってるんですね。なので、あまりこの仕事をしていてつらいとか落ち込むとか、そういうことはないですね。


繰り返し起こる問題は、個人ではなくシステムの問題です

富野 いいなぁ(笑)。僕なんかは、『回収ルート〜』に登場するような市井の人々の個々の努力があるにも関わらず、そんなことはなきがごとく振る舞う大人たちが国の顔として雁首並べる、この日本という国は一体何なんだって思っちゃう。

枝廣 たしかにこういう活動をしていると、何でわかんないだろうなと思うことは毎日のようにありますね。

富野 それで、どうして平気でいられるんですか?

枝廣 二つ理由があって…一つは、社会というのはモザイクのようにさまざまな局面が合わさったものですよね。たしかにすごく意識の低い人たちはいます。いっぽうで『回収ルート〜』でお会いしたような人々もいる。

この7年くらいそういう活動をしてきて、環境に関してはそのモザイクの中の勇気を与えてくれる心強い部分のほうが増えているんですよ。それを私は実感として感じます。環境問題を扱うNGOも増えていますし、各自治体や企業にも環境を扱う部署ができつつある。

もう一つの理由は、ちょっと大きな話になりますが、今、人類が直面している環境問題はたくさんありますよね。その中には、温暖化のように時間との戦いになっていて、しかも全世界の人々が一致団結して取り組まないとみんな道連れになってしまう困難な問題もある。こういう問題は人類が次の段階に進化するためのチャレンジだと私は思うんですよ。

富野 それはSFじゃないですか。

枝廣 そうかもしれません。これまでの人類というのは、自分の身の回り50センチのこと、そしてせいぜい5分以内、政治家なら次の選挙、企業人なら四半期、それくらいしか考えられない。

環境問題を乗り越え進化した人類は、何かを考えたり決めるときに、地球の裏側のことや七世代あとのことまで自然に考えに入れて判断できる。つまり、意識や知覚の広がった、覚醒された人間になると思うんです。そのために温暖化という課題がある。

まぁこれは人間が自分で作り出しているわけですが、進化というのは、その環境に住めなくなると、そこに適応するために起こるものですから、自分で住めない状況になりつつありますが、その中で次の進化が起ころうとしているんじゃないかなと。私は、その進化の兆しをあちこちで、小さなきらめきとして見ているんですね。キャンドルナイトに多くの人々や企業が参加しているのもその一つです。

事態が刻々と悪化しているのは事実なんですが、一つひとつの局地戦を見るというよりも、大きな流れとして人類はどこに向かっているのだろうという目で見れば、一つひとつのことで腹を立てたり、イヤになったりということはないですね。

富野 それは正直うらやましいです。でも、その能天気さがなければ、今の若い子たちには絶望しか語ることができなくなる。何かに向かって頑張れと言えないのなら、子育てはできません。今だけ気持ちよければいいから好きに生きなさいと言うしかない。でも、それだけは口が曲がっても言ってはいけないんです。

枝廣 そうですね。もし人々がモザイクの悪い面しか見なかったら絶望しますよね。で、多くの人は絶望すると行動しなくなるんです。行動しないとまさに望んでいない方向へと行ってしまう…。これはいけない。

今、子供たちの間に静かな絶望が広がっています。私たちが子供の頃には考えなかったようなこと、自分たちが大人になったときに世界はあるのだろうかとか、温暖化で人間は滅びるんだから勉強なんかしたってしょうがないとか、そういうことを子供たちが口にする。

そういう絶望感が広がってしまうと、何かを変えようとする力は生まれません。そういう方向へ持っていくことだけは避けなければならない。日本の少子化にしても、その根本にはこんな世の中に子供を生みたくないという絶望感が結構あると思うんですね。本人たちは意識しなくても、これは無言の抵抗なんだと私は思います。

富野 そのお話はとてもよくわかります。ただ、僕は少子化が大問題だという認識自体まやかしだと思っているんです。しょせん企業にとって大問題なだけなんですよ。だって、明治維新の頃の日本の総人口は三千万人以下だったんですよ。そのくらいの人口で、幕藩体制のなか、それぞれの地域国家があって、地域文化があって、かつ西洋にも対応できていた。

ということは、今の人口が半分になったって日本という国家が滅びるわけじゃない。なのに、誰もそのことを言わない。そこを無視してこうまで少子化を問題化するのが、僕にはすごく不思議なんです。

枝廣 そうですね。環境をやってる人間にとっては少子化は大歓迎です。ただ、世の中全体としてそういう考えにならないのは、先ほどからの話のすべてに共通して言えることなんですけど、これはシステムの問題なんです。例えば、どうしてこんな人が、という人ばかりが閣僚に選ばれることとか、相次ぐ企業の不祥事とか、これらは繰り返し起こる問題ですよね。

富野 全くそうです。

枝廣 繰り返し起こる問題って、個人のせいというよりもシステムの問題なんですよ。なので、そのシステム、構造を変えないかぎり解決はしない。環境問題も同じです。どうして、こんなにも大勢の人たちが一生懸命努力しているのに環境が悪化していくのかというと、彼らの努力が足りないわけでも、考えが足りないわけでもなく、環境に優しい行動をとったほうが得だと思える仕組みがないだけなんです。そこの部分が、日本は特に下手だと思います。

少子化問題に話を戻すと、みんなが本当に幸せになるためにはどうすればよいかということを考えずに、とにかく以前と同じように経済成長するためにはもっと人が必要だっていう話になる。

面白い例があって、スウェーデンでも少子化問題が深刻化したことがあったんですね。そのときにスウェーデンの人たちが出した結論は、数を増やすのではなくて質を上げようということでした。そのために教育を充実させ、子供たちが人としての力をつけられるような手厚い支援をした。生めよ増やせよという支援ではなく、生まれてきた子供たちを大事に育てるということにお金をたくさん使ったんですね。その結果、出生率も上がったんです。

そういうふうに、本当に何が必要かということを考えればいいんですけど、日本の場合は一人生んだら何万円という奨励策のレベルですから、それで生まれてくる子供は本当に幸せなのか…。

富野 そんな粗雑な生まれ方をしたら質はよくはならないですよ。

枝廣 ですよね。

世界でも奇跡的な江戸時代の記憶が日本人から消えてしまった

枝廣 ヨーロッパ諸国と比べると日本は本質的なことを考えるのが下手だし、長い時間軸でものを考えられない。それは政治も環境問題も少子化問題も同じです。そもそも何が大事なのかという話ができれば、もう少しはましになるとは思うんですけど、なぜかそれができないんですよ。

富野 これは僕の勘ですけど、第二次大戦で初めて外国に負け、その後アメリカの占領政策に飲み込まれていって、自習独学する時間をこの60年間奪われてしまった。それが一番大きいような気がします。

なぜそう言えるのかというと、明治維新と比べれば明らかだからです。日本が明治維新を迎えることができたのは江戸時代のパクス・トクガワーナと呼ばれる260年間の平和があったからです。僕なんかが義務教育や左翼思想で刷り込まれていた抑圧された封建時代というのは間違いで、江戸時代の日本は精神的にも文化的にもとても豊かな時代だった。

一番端的にそれを示すのが識字率の高さです。江戸中期以降の日本人の識字率は70%近かったらしい。浮世草子のようなものが庶民の間で読まれていたり、浮世絵の春画のようなエロ本まで流布していたという基礎学力の高さがあった。寺子屋レベルのものではあっても10歳くらいまでに論語を読むとか、まさに読み書きそろばんを民百姓がやっていたんですね。

だからこそ幕末に西洋文化に対応しなきゃいけなくなったときに、それを平気で飲み込み、それぞれの地域性のなかで上手にそれを咀嚼することができたんじゃないかと思うんです。

逆に第二次大戦以後の60年というのは国民総懺悔をやってしまっために、日本列島という風土でに身につけた知見や体感を我々は見失ってしまったんないでしょうか。

枝廣 おっしゃるとおりで、江戸時代の日本というのは、今、世界中が模索している持続可能な社会そのものだったんですね。外から入ってくるものも外に出すものもなく、すべてを日本のなかで、基本的にお日様のエネルギーだけで回していた。人間の排出物までリサイクルし、それでいてとても豊かな江戸文化があった。人口も安定していたし、すばらしい文化が成熟しました。

その記憶が私たちのなかから全く消えてしまっていますね。たしかに第二次大戦の敗戦が一つの大きなきっかけなんでしょう。その後、日本はこんなにもGDPが増えて、豊かになったはずなのに、メンタリティー的にはいまだに途上国なんですよ。まだまだ足りない、追いつけ追い越せという考え方をしていて、全然人々は幸せそうな顔をしていないんです。

富野 徳川家の直系の子孫である徳川恒孝さんがお書きになった『江戸の遺伝子』という本があって、そのなかで徳川さんは、江戸時代からの日本人のメンタリティーは敗戦までは継続していたとおっしゃっています。つまり、昭和20年までは日本の家族論は途切れていなかった。それがアメリカ軍が占領軍として入ってきて、日本人全部がアメリカ崇拝になった瞬間に、それまでの日本の家族は崩壊してしまった、と。

これはかなり正しい論だと僕は思いました。もう失われてしまっているのに、かろうじて家族が形成されているように見えたのは、一度ぺしゃんこになった産業や経済を復興させていかなきゃいけないというがむしゃらさがあったからで、それがアメリカに追いついたと思った瞬間に、パリンとその殻が割れてしまった。

つまり、この30、40年というのは、明治維新よりも大きな変革の時で、日本の社会の崩壊期だったんじゃないのかなと思うんです。そういう目線で見れば、今の日本人が幸せそうな顔をしていないのも当たり前なんです。

だとしたら、我々はあらためて日本列島が瑞穂の国と呼ばれていたのは伊達じゃないんだということに気づく必要がある。ヨーロッパで飲料水を手に入れることがどれだけ大変かを考えれば、こんなに豊かな水を手に入れられる国土を、本来ならばいかに保全していくかということを考えていくのが政府の仕事じゃないですか。

それを自民党の人たちはどう理解していたのか…。僕がいまだにわからないのが休耕田というものの存在で、田んぼでお米を作らなかったら政府が金を出すというシステムを作り出したことで、どれだけの田んぼが、村が死んだのかということまでを考えると、我々はもう一度幕藩体制に…(笑)。

枝廣 戻ったほうがいいと(笑)。

富野 そこまでは言いませんが、あの志は大切なんじゃないかと思うんです。今言われている民活とは違う意味で、日本の国土というものをもう一度きちっと見直していくことから始めるのが、日本人が今後百年二百年生き残っていくための一番の方策なんじゃないのかという気がするんですよね。


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ちなみに、富野監督がお読みになって取り上げてくださった書籍は以下です。
私もお薦めします。(^^;) ぜひどうぞ!

『枝廣淳子の回収ルートをたどる旅』(七つ森書館)

ペットボトル、携帯電話、冷蔵庫、布団、パソコンなど16品目の回収ルートをたどりながら、リサイクルやリユースの現状と問題点を紹介していく。“もったいない”を形にする人たちの熱い思いがこもった一冊。


『成長の限界 人類の選択 』

世界に大きな影響を与えた『成長の限界』から30年。最新のデータを土台に、「この30年間、 人間と地球との関係はどうなってきたのか」「いまの地球はどういう状態か」を分析し、「どうすれば崩壊せずに、持続可能な社会に移行できるのか」を、静かに熱く訴える。

 

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