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アラン・アトキソンコーナー|コラム
新しいニューエコノミー
(c) 2002 アラン・アトキソン

この文章は、ご自由にe-mailウィルスのように世界中に広げて下さってもかまいません。

私たちの経済を見直し、再編し、うまく設計し直すことで、さらに効率よく、環境に配慮し、なおかつ収益性も高い経済をつくろうという、本格的な動向を示す兆しが次第にいたるところで見られるようになっている。

項目1:ガソリンと電気を併用する世界初の量産型ハイブリッド車が発表されたことは、2004年までに市場に参入する予定の燃料電池車と並んで、自動車業界ではその幕開けとなったフォードのモデルTの登場以来、初の本格的な革命の始まりを告げるものだ。

項目2:各国首脳や財界のトップが一堂に会する世界経済フォーラムは、最近スイスで開催されたダボス会議で、人類が直面する最も差し迫った問題として地球規模の気候変動を取り上げた。

項目3:多くの国では、自然食品市場が、ほかのどの食品部門をもしのいで急成長している。消費者が、ほんとうに体に良い高品質のものを選んで購入することで、こうした食品を支持しているためだ。(有機野菜を食べると精子の数が増加すると示唆する新しい研究のおかげで、この傾向は強まる一方だろう!)

世界中の政財界のリーダーが自然の価値を再評価し、その価値を文明のバランスシートに再び組み込み、持続可能な進歩のあり方を新たに創造しようとしている。このような前兆を無視し、「新しいニューエコノミー」とも呼ぶべきものを推し進めている認識やイノベーションの台頭に抵抗し続ければ、時代の波からはるか遠く取り残されることになるだろう。

逆に、世界経済の環境意識の高まりを絶好の機会ととらえれば、成功が待っているだろう。何が起ころうとしているのかを見通す先見の明がある人々は、その見返りに思いがけない利益を手にするだろう。端的に言えば、持続可能なビジネスは儲かるのだ。それも、とびっきりに。

成功の秘訣は、2種類の成長をきちんと分けて考えることだ。一つはいわゆる「経済成長」。もう一つは、われわれが使っては捨てるモノの量が増える「成長」。この二つは全く異なる現象でありながら、あまりに長い間、誤って、そして危険なまでに混同されてきた。

思い出してみよう。経済成長とは単に貨幣の流れの増加に過ぎない。国内総生産(GDP)で測っているのがまさにそれで、一国の経済が「成長」しているか否かの重要な指標として、経済学者が用いているものだ。

GDPは経済活動の指標としてもてはやされる反面、進歩を測る方法としては悪評高い。GDPは、取引されたすべてのドル、円、ユーロをもれなく計上していく。しかし、そのお金がコンピュータチップの購入に使われたのか、それとも石油流出の後始末に使われたのかは一切問わない。GDPの成長が往々にして自然破壊と結びついているため、GDPという指標は環境保護主義者にとって格好の悪口のネタになっているが、それももっともなことである。

しかし、多くの環境保護主義者が信じているのとは裏腹に、経済成長は本来「持続不可能」というわけではない。ただし、モノの流れと切り離されていれば、であるが。モノの流れ(資源の使用と廃棄)が減ってもなお、お金の流れ(流通額)を増やすことは可能である。

実際、このデカップリング(資源・エネルギー消費量と経済活力の分離)がすでに始まっていることが指標に現れている。例えば米国経済においてさえ、エネルギー消費の増加を伴わずにGDPが増加し始めている。多くの先進工業国で「物質集約度」(触媒、型枠、電力、空気、水などの間接材と直接材すべてを合わせた物資の投入)の低減が進み、資源効率は年々向上している。価値ある美しい世界を次世代に伝えたいのなら、こうした傾向を歓迎し、さらに加速させていくべきである。

持続可能性へ転換する動機はいたるところにあり、単に環境上の理由だけではない(それも重要なのだが)。すべての原料はコストであり、すべてのエネルギーはコストであり、すべての廃棄物はコストである。そのようなコストを削減することで、利益が拡大し、必然的に母なる地球への負荷が減り、人々の生活が向上する。誰もが得をする。それが、持続可能性というものだ。

それはまた、21世紀の大きな課題でもある。地球の資源や野生動植物の生息地を奪い去ったり、あるいは有害物質や放射性廃棄物、温室効果ガスといった廃棄物で地球を埋め尽くすことなく、私たちの経済を活気づけ、繁栄させ、誰にでも生活必需品や、快適でゆとりある生活をもたらす経済を再構築する必要があるのだ。

課題という意味では、これはかなり困難なものである。だが、この課題に挑まなければどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。孫世代の生きる世界が、ひどく貧しい人々であふれ、毒素に病み、気候変動にあえぎ、野生動物や澄んだ夕焼けを見るという希望すら持てないところだと知りつつ死んでいく、そんなことを望む人がいるだろうか。どうすれば、そうした可能性を考えることさえできるというのだろう。

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