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| 足るを知る |
| (c) 2002 アラン・アトキソン この文章は、ご自由にe-mailウィルスのように世界中に広げて下さってもかまいません。 |
私のスウェーデン人の友人が持っているタオルは2枚だ。実際は3枚持っているが、3枚目は旅行に行くときしか使わない。浴室で使うタオルは、汚れたら洗濯し、そしていよいよだめになった時にはまた2枚買う。その時には質の良いものを選ぶから、長持ちする。 「2枚あればじゅうぶんだもの」と彼女は言う。「これでラーゴゥム(Lagom)よ」 そのスウェーデン語は、「これでこと足りる(enough)」と訳すと、正確にはちょっと違う。この「lagom(ラーゴゥム)」という言葉は、歌のようなメロディーで発音される。「la」は下がり調子で「ラー」。「gom」はそれよりも短い音節で、「home」(ホゥム)と韻を踏むように「ゴゥム」と発音し、「la」の出だしの高さに戻る。意味は、「程よくちょうどいい量」といったところだ。 この言葉を知って、なんと感激したことか!過剰消費や大量消費への反論を考えようとすると、英語にはこういうすてきな単語が全くないため、言葉に詰まってしまうのだ。 「こと足りる(enough)」と言う言葉は、ほとんどのアメリカ人の耳には、その前に「かろうじて」が付いているように聞こえる。どういうわけか、「こと足りる」といっても決して足りているように聞こえないのだ。 「バランス(balance)」はいかにも難しそうだ。私自身だっていつもバランスがとれないでいる。「充足(sufficiency)」はどうも経済の専門用語のニュアンスだ。マーケティング業界で最近はやっている「シンプル(simplicity)」でさえも、道徳心が強い人や、ひどく多くのモノに圧倒された重症患者の心くらいにしか響きそうにない。 私たちは、ちょうどいい量とはどのくらいなのかを考えるための概念を必要としている。そしてそれを言い表す言葉が、スウェーデン語にはある。 この「lagom(程よくちょうどいい量)」という考え方は、ケーキから二酸化炭素排出量に至るまで、すべてのものに当てはめることができる。では、チョコレートケーキの「lagom」とはどのくらいの量だろうか。私なら、たいてい「こと足りる量」よりもちょっと多めを考えるだろう。では、二酸化炭素ならどうか?それは、地球の生態系がちょうど吸収できる量であって、それ以上ではない。つまり、「lagom」の許容量は「こと足りる量」より大きいけれども、上限はあるのだ。 アメリカ社会が「lagom」の概念を中心に成り立っていたとしたら、どうだろう。ただし、スウェーデンがそういう社会だと言っているわけではない。私の友人は過激なタイプではないが、周りのスウェーデン人よりは熱心な「lagom」主義者だ。(かつての北欧の海賊、バイキングたちが「程よくちょうどいい量」だけを略奪する姿なんて想像できるだろうか!) アメリカ人にいたっては、この単語の発音さえうまくできない人がほとんどだろう。でも、私はこの言葉にちょっと心をひかれている。なぜなら、「こと足りる」にも「充足」にも、「シンプル」という言葉にさえも感じられない魅力的な響きが「lagom」にはあるからだ。 世界中のほとんどの人は、「こと足りる量」では満足しない。もっと欲しいのだ。人々は、必ず必要最低限以上のモノを欲しがるものだし、ある研究によると周囲の人が持っているよりも多くのモノが欲しいと感じるそうだ。 このような「もっと欲しい」という欲望は、ヒトの体内に深く刻み込まれているようである。人類は何千年もの間、過酷な自然環境と社会環境の中で生き抜いてきた。必要以上の量を確保することは、いつの時代でも、不透明な将来の不測の事態に備えるための第一の防衛策だった。行く手に嵐(あるいは、あらゆるモノを略奪していく海賊のバイキングたち)が控えていると思えば、まずモノを蓄える行動に出るのだ。 だから、「こと足りる量」や「自発的なシンプルさ」といった考え方は、今後も一部の人たちからは好まれる一方で、大多数の人々(あるいは、あらゆるモノを人々の家に詰め込もうという、いわば略奪の逆の行為に必死の企業群)を変えるだけの力を十二分に持っているとは決して言えないようである。 けれども、スウェーデン語の「lagom」を表す適切な訳語を見つけられさえすれば、この素晴らしい感覚を世界中に広めることができそうだ。なぜなら、この言葉は、人々が実際には何を求めているか、に訴えかけるからだ。 例えば、良い靴を履くことはとても嬉しいことだと認めよう。良い靴を欲しがっても、誰も責められたりしない。だけど、1人の人間に15足の靴が本当に必要だろうか? 答えはノーである。かと言って、1人1足で足りるかというと、それもノーだろう。 「lagom」という言葉では、人が必要とし欲しがるモノは時と場合により変わるということを認めている。人は、良いモノも欲しがれば、心地よさを求めたり、そして安全も望んだりする。必要最低限より多くのモノを得ることが、単なる欲望ではなく、不可欠である場合もあろう。「こと足りる量」よりも多くを求めることが許されるばかりか尊重されるとなれば、たぶんみんなも、どのくらいがちょうどいい量かを考える気になるかもしれない。 われわれアメリカ人の生活が「lagom」の範囲をはるかに超えているのは明らかだ。私は時々、コストコやサムズクラブなど、たくさんの消費財であふれかえった巨大なディスカウントストアをぶらつくことにしている。その広さといったら、潜水艦の組み立て工場がすっぽり収まるほどだ。メキシコ料理のタコスの材料からトランポリンや、木でできた船の模型まで、何でもケース単位で買える。ショッピングカートの大きさは小型車のようだ(いや、車は買えない-まだ今のところは)。 こういう店の売り場を歩き回っていると、いくつもの全く異なる感覚が心をよぎる。ひとつは、生々しく強い消費欲。それから、道徳観に基づく激しい怒り。さらに、環境問題を考えての心の痛み。 しかし、例のスウェーデン人の友人をこのような店に連れて行ったところ、彼女の反応はもっと現実的だった。「ここではずいぶんお金を節約できそうね。まとめ買いした方がいいものもあるし」。(タオルは別だけど。)「でも、こういう店だとつい買いすぎてしまいそうね」 ありあまるほどのモノが必要な人はいないし、実は本当のところたいていの人はそんなに多くのモノを望んでもいないのだ。とはいえ、少なすぎるのはいやだと誰もが思っている。たぶんわれわれの描く持続可能な世界では、ありあまるほどのモノを欲しがらせるような誘惑をほとんどなくしながらも、すべての人がただ「こと足りる量」ではなく「lagom(程よくちょうどいい量)」を得られるべきだろう。 さて、新しく覚えたこのすてきな言葉についてまだまだ書きたいことはたくさんあるが、おそらくこのあたりが「lagom」だろうか。 |
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