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女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から、その9

2016年12月26日
女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から、その9

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石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんから届けていただいた「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。東日本大震災は遠い話になりつつありますが、忘れてはならないことは忘れずに、時々でも思い起こしたいと思います。

~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~

1)R.S 60代               2016年7月24日(日)

経験と知恵が、自分の中で次のステップを見つけていくんじゃないかと思います。3.11を忘れないでほしい。私たちが、こうやって石巻で生きてるんだということを。テレビや報道と現実は違う時もあります。自分の生活では、100%の目標が達成しなくとも、いいんじゃないかと自分では思っています。

東京で退職し、震災の前の年2010年11月に、母の暮らす実家、石巻に帰郷、そして翌年3月に被災。60歳で退職後、ゆっくり自分の好きなことをして過ごそうと考えていて、まだ引っ越しの荷物をほどいていないものもあり、読もうと思っていた本も流されました。死なずに生かされ、生き残ったのです。同級生は行方不明。打ちのめされたままではいけないし、こうなっちゃったことを受け入れるしかありません。

することもなく、2014年8月にカフェを開きました。家族の食事を作った経験しかありませんでしたけど。ボランティアが片付けきれいにしてくれたので助かりました。津波の後の、荒涼たる風景を見て、人が集まる場所を作りたかったのです。近所の美容室が再開し人が集まっていたのを見て、ほっとしました。仮設の閉じこもりがちだった知人に声をかけたら、カフェを手伝ってくれることになったのです。 

福祉の仕事を東京でしていていろんな人と会って、苦情も前向きに対応していました。相手を受け止める性格かもしれませんね。こういうことがあるんだなぁ、こういうことが起こるんだなぁと3,11を思います。

呆然として、2週間、避難所にいました。灰色とがれきの中で、人の気配を作りたい、人がいるんだということを知らせたくてカフェを思いつきました。春が、枯草から新緑が芽吹くようなイメージ。仮設の見回りの仕事をしました。避難所から、みなし仮設に移りましたが、狭い2部屋でじっとしていられませんでした。 自然の威力はすごいですね。自然を征服したいなんて考えないことね。怖いことは避け、津波が来たら逃げること。 

以前は、海水浴客の声が風にのって流れてきた海辺。低い防波堤があっただけ。荒れる日も、きれいな日もあるのが海。ずっと前に、大きな漁港ができて、水の流れが変わって砂浜が持っていかれたのが寂しい。

ここは3.11のずっと前、遠浅の海きれいな海で、私が子供のころ、広い砂浜で海にたどり着くまで足が熱くなったの。津波より、漁港ができたことが辛い。昭和35年のチリ津波を防波堤から眺めていました。ここは安全だと、逃げなかったのです。

3.11では、運転中、松林から波が見えました。深い林だと思っていたのに、そうでもなかったのです。強い地震の後、「やっぱり津波が来た!」と。車のラジオでは津波!と言っていました。車のバックミラーで振り返りつつ逃げ、左へ曲がると外に知人の男性が立っていました。くるぶしまで水がきていました。寝たきりの母親を乗せてくれる車を待っていたらしいのです。二人で、二階へ母親を運ぼうと階段を上りかけたら一気に津波がきて、急いで2階へ。死にたくないと思いました。その母親に布団を重ねてかけて、寒さをしのぎました。二階から、山へ流れる津波を見ていました。

自分で納得しないと前に行けないし、知識だけじゃなく想像力も大切ね。こだわり続けているとはっと気が付いて、答えが見つかる時があります。すぐではなく、ピッと結びつく時がくるので、次の展開まで待つことも必要です。準備期間です。誰かが言っていたけれど、赤ちゃんのハイハイのように順番をおって立つようになり、階段を一歩づつあがるように。

退職後は遊んでいたかったです。今は自分の時間がないです。5年をめどにカフェを開店して、面白く楽しかった。明日になったら陽が上り、開けない夜はないんです。3.11の日に、二階でじっと朝が来るのを待っていたように、ずっと同じはないんです。あなただけじゃない、誰かが気にかけているよ、一人じゃないよ、心配している人がいるよというメッセージが必要です。被災したのは私だけじゃないから乗り切れたのではないでしょうか。次の展開も考えています。カフェに、いろんな人がいろんなことを抱えて来るのですが、一生懸命生きて立ち上がろうとしています。

東京はもういや。高層ビルでお日様もろくにあたらなくて、窮屈。便利だし何でもあるけど、もう住みたくありません。

花を植えてくれるボランティアもカフェに来て、ヨガ教室や絵手紙教室も開催しています。このカフェの名前は、フランス語で海という意味。なんとなく青のイメージが浮かんで、青い空と青い海のカフェです。じたばたしても海とつきあっていくし、開き直りね。

2)Y.S 60代                 2016年7月27日

日ごろからの防災意識が大切です。こなす教育でなく、創る教育へと見直して、子供を中心とした創意ある教育です。私は若いころ、大変な仕事だから教師にはなれないと思っていました。教師を尊敬していました。大学を卒業して、1年半、会社の経理を担当していました。ある日、会社でそろばんをはじいていた時、耳の中でキンコンカンコンという音が鳴ったのです。そして会社を辞めて、学校の非常勤の講師になりました。

子供達にもっと向き合いたいと思っていたら、疎外されていた3人の女子の生徒が直訴してくれ、校長によばれて教員になったらと助言されました。子供がつないでくれた。私を活かしてくれた夫に感謝ですし、切迫流産や子育ても大変でしたが、たくさんの先輩から指導をうけ、すばらしい先生から学びたいという気持ちでいっぱいでした。 授業作りと行事を中心にした学校運営をしました。自分の命を守る安全教育です。先生方もまとまって、つながって共有し学校全体で、組織体でいい集団をつくったと思います。

指導案から変えて子供が変わってくるのがわかります。保護者の意識改革も試み、子供を大切に共に子育てし子供が生き生きとする居場所のある学校です。

3.11の日は、訓練通りやっただけやっただけです。日ごろから、先生も子供も真剣に訓練にとりくんでいました。99.9%、大地震がくると予測していたので、安全指導をやってきました。日常的に廊下を静かに歩き、朝会や集会ではすばやく並び、先生の言うことを聞く取り組みです。退職まで3年という限りある中で、だんだんと時間をかけてやってきました。

"桃花笑春風"という言葉を3.11の集会で子供達に伝えました。これからつらいことがあるけれども受け止めて生きるんだよと。子供を伸ばしたい、校長としてこういう学校を作るというビジョンを持って、いいものを作り出したい、心に灯をともす先生になりたいと思っていました。父の影響かもしれません。

出会いとつながりを大事に、ぶつかってのりきった、33年間の教師生活は、子供達にたくさん教えてもらいました。子供達に感謝。一方的でなくお互いに教えあったのです。いい授業は、自ら考え表現し、判断の力をつける授業です。立ち止まって振り返りながら。

被災後、神戸へ転校した子供が、「上がれ!」と必死に守ってくれた先生のことを話してくれました。被災した学校の校舎を遺構として残したいです。3.11の日は、校庭で津波のサイレンを聞きました。とっさの判断で、230人の子供達とすばやく高台へ避難しました。地域の人も一緒に避難し、子供達に私たち大人も救われました。後で、バーナーで開けて、金庫の卒業証書を出しました。

震災の年に生まれた子供が小学1年生です。事実を語り、伝える使命をやり遂げたいです。戦中、生き抜いた教員は、どんなに辛かったでしょう。強いですね。私たちは、自然災害でも強く生き抜かなくては。

3)M.Bさん 60代               2016年8月10日

大きな揺れで、ただごとでないと思ったけれど津波は予想していませんでした。会社で働いていました。車の近くに行くと、フェンスに止まって逃げないカラスに、「何か起きるの?」と聞きました。石巻市内の家が心配で、ひたすら前の車について運転しました。70kmのスピードで。街では人がのんびり後片付けしたり、おしゃべりしていました。スーパーへ行ったけれど、すでに列。日和山から海を見ました。おしゃべりしながら、日和山へ登って来る人。

ラジオでの荒浜のニュースで、ただ事ではないとわかりました。ラジオは仙台のニュースばかり。「女川全滅」のニュースに、放心。自分で確かめなくちゃと、車の中で暖をとりつつ夜十時まで起きていて、それから服を着たまま寝て、朝になったら夫を女川へ迎えに行こうと考えました。

夫は小学校の教員で、連絡がつきませんでした。こんな大きい地震だから児童達の世話で当分帰ってこないだろうと直感。次の日、市街に船が上がっていて、歩けません。女川まで歩こうと決めました。3月12日の朝、立町で炊き出しがあり、知らない人に「食べていけ」と言われ、ありがたかったです。知り合いのすし屋がプロパンで炊いたご飯をくれました。近所の人もプロパンで炊いたご飯を分けてくれました。5日目の朝、夫の無事を確認でき、生きていたので安心しほっとしました。教員である夫は、これからしばらくは子供達のために仕事し、家には帰ってこないだろうと思いました。

3.11の夜は、火のついた海が山に迫って来ました。先入観はいけないのでラジオをつけませんでした。前の日、友人が津波に注意しようと言っていたばかりですが、その彼女は亡くなりました。戦後の焼け跡ってこんな感じ?黙ってみんな歩いていました。2週間後に夫と再会。風呂に入れ豚汁を作って食べさせました。しばらく私は仕事に集中しましたが、疲れ果てて、秋田の海に行って、魚を食べたいと思いました。

考えるよりまず先に実行する性格です。自分だけじゃなく周りも同じく被災したので、なんとかなると思いました。後で夫から聞きましたが、学校のある高台から黒い壁の水が見えたそうです。もっと上へ児童を移動させました。親が迎えにきても帰しませんでした。5台の防災無線がだめ。女川のマニュアルには、地震があったら津波がくるとあるそうです。

私は若いころ遠方から嫁に来て、自分から求めると近所が助けてくれました。震災の後も、普通の付き合いが助けてくれました。お互いの声掛けが大切です。心を開くこと。今の若者は人とかかわるのが面倒、希薄な人つきあいなので、これでいいのでしょうか?

人が好き。私がやります!と手をあげるタイプです。家の司令塔。中学まで暗くて人に近づかなかったのですが、これは損と気がつきました。赤十字のボランティアをはじめ高校時代からは、はじける性格になりました。子供の世話が好きです。

夫も無事で、自分は仕事も家もあるので、被災者じゃないと思います。それが後ろめたい。たくさんのボランティアが活動し、知らない人達とすれ違い、慣れ親しんだ町が違う場所みたい。口をあけて待っているだけの被災者でいいのでしょうか。復興って?石巻の人の間でも温度差があります。立ち止まって考えつつ、そろそろ自立も考えなくてはいけないかもしれませんね。

流れついたサンマを背負い山をあがってきて、サンマを煮ました。かまぼこをもらったり、米を譲り受けました。被災した人達を自宅に招き、風呂に入ってもらったり、洗濯もしてもらいました。先を考えるタイプじゃない。現在が精一杯。過去も未来も見つつ、今日一日満足ならそれでいい。

出会いや時間も、その日、その日が大きいです。悩むことがないんです。悩んでもしかたないし解決しないから。子供のころ本をよく本を読みました。小学校のころ、天気がいいので山へ行こうと先生が言いました。故郷は、高い山があり、山を見上げる見る生活でしたから、上をむく視線で違うものが見えると思います。今は、立ち直り人に伝えたいことを積極的に発信することが楽しいです。

4)A.Sさん                   2016年8月21日

失ったものが大きいけれど、それ以上に得たものが大きく感謝しています。2011年の夏に家の修復が始まり、知り合いの大工さんが来ました。10月に排気口から迷いネコが顔をのぞかせていて、ボロぞうきんのようで毛玉だらけでした。すり寄って来るので前に誰かに飼われていたのでしょう。この被災猫はPTSDかもしれなくて、空を見てパッと走り出すパニックになることがあります。よほど怖い思いをしたのだろうと想像できます。

被災を通じて感じた、人の優しさや思いやりは、普段では経験できないことでした。被災時、夫は病気で3~4年も寝たり起きたりで、強い薬を服用していました。娘も離婚するかもしれないという状況でした。夫がほとんど寝たきりになり、私がすべて自分でやらなくてはいけなくなった時、やればできるんだという新鮮な驚きがありました。泣いている暇がなかったのです。あるテレビタレントが、3.11の直前に「逃げずにすべてを受け入れよう。人生は修行。」と言っていたのを思い出します。

津波は玄関から入ってきて家に2m上がりました。夫と猫と一緒に、とっさに二階へ上がりました。2階に避難してみると、辺りはすべて水没していて、みんな同じなのだ、一緒だと安心しました。それから、神戸へ行く機会があり、20年以上経った神戸の復興を見て、すばらしいと感動し、石巻も前を向いてやれば大丈夫だ、人の力はすごいと確信しました。神戸に旅をしてよかったです。 

3.11の次の日、隣の夫妻が小学校へいったん避難したのだけれども、家にもどってきて食料をつめて、また小学校へもどろうとしたら津波にあったようです。我が家は、パン、水、菓子パン、布団がありました。8枚切りの食パンがあって、これで一週間もたせようと夫に言いました。隣の夫妻に窓越しに聞くと、そんなに食べ物がないというので、菓子パンをビニール袋へいれて物干し竿につるして渡しました。すると、しばらくして水がお返しにもどってきて、それから、おこわや納豆など何倍にもなってもどってきました。無心で人を助けたいと私は思っただけですが。

犬のおしっこ用の袋があって、トイレ代わりで、10日は大丈夫だと思いました。3.14になっても水がひきませんでした。数日して、やっと下に降りて、下駄箱の引き出しに上がって、泥の中で靴を最初に集めてよせました。仙台の息子が迎えに来て3月末10日ほど、息子の家で暮らしました。仙台に行くとき、隣の奥さんの娘さんが、できたてのぽかぽかのおにぎりをくれて、おいしい!人生で初めての味と感激しました。仙台では病院から薬を無料でいただきました。仙台は電気もありテレビも見れて、別世界でした。

あの3.11の時、二階でこれ以上、水がきたら寝たきりの夫を板に乗せて流そうと決めていました。押し入れの一番高い所に板があったので。猫には癒されました。猫は我慢していたのか、3日目におしっこをいっぱいしたんです。私が紙をちぎってトイレを作ってあげたから。

辺りは、車がひっくり返ってがれきの山でした。車で20分の実家に、3月30日からお世話になり、実家のありがたさが身にしみました。以前は二か月に一回ぐらいしか行かなかったのにね。

実家から石巻に通ってきて片付け。普段は交流のない妹や兄が助けてくれ、なんてありがたいのだろうと思いました。期待していなかったので。二階で、ガスコンロでカップ麺を作ってみんなで食べて楽しかったです。夫が3.11を契機に、ちょっと元気になりました。震災直後は、どうして誰も助けに来ないの?と疑問でしたが、道路もないのですから、これじゃ誰も来れないとあきらめました。

独身の時は海外協力をしたくて、ずっと外国に行きたかったです。中学の時、英語の文通もしていました。洋裁の仕事を26歳までやって、結婚し、27歳で出産しました。自分は、娘は小学校でいじめにあい、10年も引きこもりで、大学へはいったのですが、すぐ退学しました。私には試練でしたが、乗り越える力があるにちがいないし、娘も苦しみ悩んでいると納得しました。かくしてもしょうがないので、娘のことを誰にでも言うんです。オープンな性格です。

東京で娘のアパート探しをしている時、泊まったホテルで、コーヒーを飲んでいた時、他人に話しかけたんです。「人生って大変ですね」と。すると「どん底って長く続きませんよ、以外と抜け出せますよ。どん底って思わない方がいいです。」と、その見知らぬ人から返ってきました。「そうなんだぁ」と希望が持てました。引きこもりの子供を持つ家族会も、助けになりました。

私は直感で動くタイプ。さしあたって何をしたらいいのか、直ぐに決断します。考えてもしようがないですもの。マザー・テレサが、隣人を愛しなさいと言っていたのをテレビで見て、私はずっと主婦だったけれど、貧しい人に何かしたいと、あせりともどかしさがありました。心が折れるのはだめです。この5年を振り返り、あまりにも恵まれ幸せだと実感しています。雨の日が好きで、安心します。夫の介護に疲れて爆発した時、知人が「よかったね」と言ってくれて嬉しかったです。

私は、身内に亡くなった人がいないので苦しくないんです。家や物は直せばいいし、物はなんとかなります。支援物資は、早い段階から要らないと思って、3回目で断わりました。宅配便の人に「おめでとうございます」と言われたんです。

3.11は人生の一ページ。前を向いて生きていれば、必ず乗りこれられます。日本は平和ぼけです。物をまだ追い求めているじゃありませんか。3.11のあれだけの被害なのに変わらないのはなぜ?伝わらないのはなぜ?なぜ学ばないのですか?

2013年に、アメリカからのボランティアの若い男性に、朝ご飯として、ベーコン、ウインナー、卵を作ったのに、ベジタリアンだと言われ、野菜と果物しか食べてもらえませんでした。3.11の前に、犬が亡くなってよかったです。助けられなかったから。

 

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