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女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その3)

2016年03月10日 |コラム
女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から(その3)

Image by T.KISHIMOTO

http://bit.ly/1VZurSm

東日本大震災の被災地宮城県石巻市からの「女性達からのメッセージ」その3として5人のメッセージをお届けします。

~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~

女性達からのメッセージ

東日本大震災の被災地宮城県石巻市から2015年10月

11)U.Xさん(70代)
前向きに穏やかに、どんな環境も受けいれたいです。家の二階に避難していて、放送局のへリコプターに手を振り、"息子がテレビを見ていて、自分が無事であることを知ってくれたら"と期待していました。一人暮らしなので自分のことだけ考えればいいので楽でした。健康の大切さ。自分は友人に恵まれていることに感謝。命は惜しくありません。息子の妻の実家に避難。そこには井戸や薪ストーブがあり、24人の共同生活が始まりました。きれいな、おしゃれなコーヒーカップでコーヒーをいただき、心の栄養だと思いました。被災して、人の本性がわかった気がします。例えば、安い物(100円)だけ送ってくる知人や、送ると言って何も送ってこない知人。

離婚の方がもっと辛かったです。37歳の時で、夫がもどってきませんでした。悔しくて泣きました。辛くて、屈辱で、なさけない。離婚に比べれば、震災は天災ですからあきらめがつきます。当時、小学1年と6年だった子供達にもうしわけなかったです。子供二人を連れて実家に戻った時、両親は「もどってきて幸せ」と言ってくれました。近所の人もいい人でした。パートの仕事をいくつか始めました。練り物会社にいた時、中国人研修生13人を受け入れ、緊張と不安の生活指導員となりました。誠実に対応したつもりです。自分の顔は自分で見れませんが、相手の目に映る自分は見えます。真剣に生きた一年。中国語も、シャンソンも簿記も習いました。その苦労を覚えていて、次男の息子は、今、とてもよくしてくれます。他人をねたまないようにしています。

新聞配りのボランティアを仮設の自分の家に招き、お茶をごちそうしています。各地のボランティアと交流。友人を大切に。当時、高校に進学しない人や集団就職する人が多かったです。そんな同級生達と長年つきあっていて、被災した時、支援の品を送ってきてくれました。今でもオリンピックの年に(4年に一度)同級会をします。ずるい人や嫉妬する人は、友人にいません。

小さいころから明るい自分。今も気分は18歳。高校の制服が着れるような気分。前向き、楽しい話が好き。仮設も楽しいです。狭いし隣の声も聞こえてうるさいけれど、掃除が簡単。物は考えようです。すべて一長一短。よいも悪いも自分しだい。幸せ、感謝。物はいつか無くなります。一人暮らしを楽しみ、愚痴を言っても仕方ありません。歌、ボイストレーニングのレッスンを受けています。70歳になって、大学のある先生のお手伝いの仕事をしています。人がいるってすばらしいです。一人はつまらない。いつ死んでもいいけれど、こんな人生が送れるとは想像もしませんでした。今が一番幸せ。再度、中国語にチャレンジし、中国からの留学生との交流も楽しみです。

2014年6月17日

12)Y.Z(60代)
"ここから、海側に家を建ててはいけない"という石碑の文言を守らなかった石巻の人々。40年~50年前、不動産屋は、"ここは津波がくるかも"と忠告しましたが、土地を購入した人々・震災から3年目の今、再建は過酷。震災当日、亡くなった人の分まで生きようとすぐ思いました、生かされたからには。近所のみんなは亡くなり、家はありません。しかたない。みんなも同じです。ご遺体をたくさん見ました。みんなに支えられたので、どう恩返ししたらいいのでしょう。物は入りません。何がなくとも、生きているだけでいいとみんなに言われました。その言葉に支えられました。物にも心にも支えられたのは確かです。信仰を持っている人は強く、やさしく、やわらかいですね。

震災遺構として残そうとしている小学校の建物がありますが、自分は保存に反対。見ると辛いし、たくさんの人が亡くなったことを思い出します。自分は幸せ、夫と二人。しょぼくれてもいられません。家を再建しても、それが終わりではありません。カンボジアのアンコールワットを見たいです。この3年。わけのわからない3年。建設のビジネスをしたいです。姉の死(2013年)は震災より辛いです。国内外の誰かに恩返ししたいです。友人がたくさんいてよかったです。相談できる友達。一人では何もできません。信頼が大切です。物はなんとかなります。泊まりにおいでと言ってくれる友達がいます。

自分のためだけじやなく、車を失った知人の分まで、車で送迎。実は45才で免許取得。すっぽり家屋を失いましたが、家族がいるから大丈夫です。震災後、他人の人間性や内面がわかりました。ある人から"ざまあみろ"と言われ、ショックでした。厭な人とは会わないし交流しません。遠方から米、味噌をもってきてくれた人達。これからは好きなように生きたいです。20年間働いたので、いつ死んでもいい。後悔はありません。それなりに人の世話もしました。夫をおいて逝きたくはありません。男一人は悲しい。考えてもしかたありません。問題にたちむかいます。震災前は、指輪、皮物が好きで着物、靴、バックをいっぱい持っていました。今はまったく関心がありません。指輪もつけたくない。不思議です。ほしいものは、ありません。物欲が無くなったのです。若いころ夫は船に乗り、自分は一人で子育て。子どもを預けて働きました。

2014年6月22日

13)B.Aさん(50代)
女川の出島の家が流失。震災当日、三男が石巻で乗ったはずの電車が津波に巻き込まれました。しかし三男は乗り遅れて、無事でした。行方不明の時、絶望しているひまがありませんでした。息子を失くしたかもしれないと、市役所で避難している人の名簿で名前を探しましたがありませんでした。半分あきらめましたが、無事でした。警察所で、ふてくされた態度を取りました。駅にも人がいなくて説明がありませんでした。自分より、夫の方が三男をかわいがっていたので、もし三男が亡くなったら夫を支えなくてはと思いました。自分は勤務先の高校から避難所へ3日目に移りました。高校の避難所の伝言版に"お母さんは中学校にいる"とメッセージを残しました。義母は島で無事のはず。生徒達を守らなければとも気持ちで生きました。

5日で水がひけました。5日間は避難所で、5日間は知人宅で。中古車を60万円で買い古川の弟宅から7月まで4カ月間、1時間半かけて通いました。仮設で一年半。家族をどう守るかをいつも考えていました。しばらく人と会いたくない、人に誘われても行きたくないという時期もありました。帰る家がないということは、ご飯をつくる必要がないという不思議な解放感もありました。

40歳で図書館司書になりました。島から高校の図書室に7年間通いました。転勤で石巻の高校になり、朝6時半の船で出勤、夕方5時50分の船で帰宅。10月から12月の3カ月はホタテの耳釣り(10回)で夫を手伝います。ずっと夢だった家を2013年に建てたのですが、震災で夢がかなったということです。家が流失していなかったら建てられませんでした。古民家風の家が夢で、土地は以前に取得していました。市内は島より便利。新築の家に人を呼びたいけれど、広いきれいなスペースに、自分だけ建てていいのかとの後ろめたさもあります。まだ仮設や狭いアパートに暮らす不自由な生活をしている人が、恨みや妬みを感じるかも。しかし、自分はがんばって建てたのだとも思います。島(500名)の淀やしきたりを守り縛られていましたが、今は解放されました。

島の家では、物にあふれていました(本、CD、子供の着もの)。あってもなくてもいいものは入らないのです。物がガレキとなって、波に流され、ばかばかしい。震災後、4日間、自宅に通って片づけました。家の解体にたちあいました。生きるのに必要なものは、そんなにはなく、お金をつぎ込んでも無駄です。夫は漁業を再建。資材や船を調達。小学生の孫を二人失くした船大工さんに頼みました。大工さんにとっては生きる希望となったようです。役所の支援の書類は複雑で、読み書きパソコンができないと不利になるので、本当に必要な人に支援がいったか疑問。以前、多額の負債の経験。くじけている暇がない、しかたない、前に進むしかない。島の生活では、いつか津波はくるものとの準備、覚悟がありました。家族が無事でよかった。時間を戻してほしいと思いません。震災は人生の延長。次元の違う世界にタイムスリップした感覚。お払い箱の古着を送ってく人達に失望。食事作り、体力作りにはげんで、将来は食事を自宅で提供したい。支援ボランティアに自宅を開放したい。この場所のこの時代に生まれた因果。震災前は、自分の人生は何事もなく、こうやって平凡に終わるのかと、ぼんやり考えていました。

2014年8月31日

14)D.Cさん(70代)
自分が52歳の時、夫が肺がんで他界。16年前です。人が死ぬということがわかりました。夫ができなかった分を自分がやると思ったのが、自分の生き方を変えました。結婚と死別が人生で大きい出来事です。夫は市会議員でした。妻として、皆さんに一票をお願いするのは大変だと実感。夫は優しく親切で夢のある人だったので、おかげで夢をみさせてもらいました。自分は若いころ、家業の酒屋の配達や客相手をしていました。若いころから、困っている人を助けたい、何かしたいとの気持ちがあり、海外へも行きたいと20歳ころから思っていました。

18歳から会社に勤めはじめました。周囲の人から食事をごちそうになり、いろいろと連れて行ってもらったので、自分もできる環境になったら、やりたい、役に立ちたいと考えていました。夫が他界後、保険の仕事、法律事務所受付の仕事を始めました。真面目にやっていると仕事が巡ってきます。何歳で死ぬかわからないので、適当にほどほどに自然に生きていきたいです。経済的・社会的・精神的に自立する女性が大切だと若い頃から思っていました。4人の息子を育てあげるなかで、いろんな人と関わりました。女'性は臨機応変、器用に生きられ、頭でいろいろ家事や仕事を交通整理するのです。

震災後、自分のできることを惜しまずやっています。息子家族、知人夫妻を自宅へ泊め、9人の共同生活。知人の差し入れ:肉、野菜、燃料は、ありがたかったです。近所づきあいの大切さ。息子家族は10月までいたので、食事作りは楽しかったです。食べさせる接待が好きなので、苦になりませんでした。水は、水汲みに行ったり、井戸水からもらったり。大きな地震があったら、高台へ逃げ、命を大切に。震災後、慰問のコンサート(集会所、病院、生協、老人ホーム)をしています。59歳でシャンソンを習い始め、60歳でコンクールに出て入賞。2011年6月にシャンソン仲間で集まりコンサートをしました。有名なシャンソン歌手が石巻に来て元気をもらい、仲間も元気になりました。その歌手も震災当日、コンサートする予定の市民会館で被災しました。痛みを自分のこととしている歌手が一生懸命なので自分も応援したいです。これからは自分ももっと施設を訪問して元気がでる歌を歌いたいです。夢を持っていればいい。

2014年9月13日

15)E.Fさん(60代)
以前の自宅は流失。震災直後、母親と叔母を、娘の車に乗せて小学校へ避難。体育館にカギが閉まっていて入れないので校舎へ行こうとしましたが、校庭で津波に巻き込まれました。気がついた時には下駄箱の上で、辺りは水でした。みんなとバラバラになりましたが、娘と次の日に再会。ボランティアは、バスが通る大きな道にしか花壇を作らず、かつての自分がいた土地には花壇を作ってくれません。自宅跡から、残った花を仮設にもってきています。公営住宅が当たって来年の秋に引っ越しますが、みんなには言っていません。当たっていない人もいるから。土地の借り上げには、まだ応じられません。自宅跡付近に新築できますが、また津波が来るかもしれないので建てたくありません。

当時の支援物資の配分に不満。毛布を何枚も持って行く人、たくさん服を持って行く人がいました。公営住宅は庭がないので、引っ越しは楽しみじやありません。アパートだから土がありません。一軒家に住みたいです。地元の住民の意見を聞かない市の復興の在り方に不満。よそから来た人が復興をしている。

防潮堤は、強度が弱いので反対。裁縫や手芸が好きで、東京のボランティアが自分の作品の販売を手伝ってくれています。生き残った自分。かつての自宅にあったもの"あそこの引き出しにあったなぁ"と留袖の着ものを思い出すことがあります。一回しか着ていないのに。自分は目が不自由。公営住宅に引っ越すとき、手伝いが必要です。孫がトマトをとりにくるので、烏に食べられないようにビニールをかぶせています。ねこに餌をやらぬように近所の人に言いました。付近のゴミ置き場の烏が迷惑。豪雨で仮設の斜面の土が流れ、チューリップの球根があらわになりました。それを拾って自宅前に植えました。

2014年9月16日

 

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