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山地憲治先生に聞く「経済成長についての7つの問い」

2015年04月08日
山地憲治先生に聞く「経済成長についての7つの問い」

山地憲治先生(公益財団法人地球環境産業技術研究機構理事・研究所長)は、エネルギー基本問題委員会で、原発比率ゼロをめざすべきという私の立場に対し、「原発比率35%」という選択肢を提案されるなど、エネルギーに関する考え方はかなり違いますが、いろいろとお話をうかがうことができて、とても勉強になり、また考えさせられました。ぜひ読んでいただきたい、考えていただきたいと思い、ご紹介します。

山地憲治さんさんに聞く「経済成長についての7つの問い」

Q. 経済成長とはどういうことですか、何が成長することですか?

教科書風に言うと、国民総生産(GNP)の伸びを思い出しますが、これは「フロー」ですね。年間の付加価値ということですから。私は、経済という教科書の範囲の中で考えても、「ストック」としての資産の増大としての経済成長があると思います。フローではなくて、何を持っているか、です。

その視点から見ると、資産には、経済活動でつくったものだけではなくて、もともとある土地や自然といった、いわゆる自然資本と言われるものもあります。環境も含めていいのかもしれない。

そういう広く定義された資産を含めて、資産が大きくなる、経済価値が増すことが経済成長ではないかと思います。普通、教科書風に言うと「GNPが大きくなっていくこと」ですが、資産に着目して、自然資本とか環境も資産の中に含めると、幅が広がるのではないかと思います。

Q. 経済成長は望ましいものですか、それはなぜですか。

フローにしてもストックにしても、自分が持っている、あるいは稼いだ経済的価値が、どんどん大きくなるのはうれしい。しかし、無限に大きくなっていくことが望ましいとは思いません。

「一人当たり」か「国全体」かなどで違うけれども、たとえば「一人当たり」ということで言えば、どこかに満足水準がある。それがないと、ずっと求めていくというのはかえって不幸だと思います。

満足――教科書風に言うと「効用」ですが、効用は消費そのものではない。消費がだんだん増えると、限界効用は逓減していきますね。そういう飽和傾向を持っていると思います。

Q. 経済成長は必要なものですか、それはなぜですか。必要な場合、いつまで、どこまで、必要でしょうか

ある程度は必要なもの。必要最小限のものもあるし、より多ければより望ましいこともある。ただ、全体としては、持つものが大きくなっていくと、効用の増分は逓減していく。

ただ、「いつまで、どこまで」と言われると、人によって違うのではないでしょうか。龍安寺に「吾唯足知(われただたるをしる)」というのがありますが、私自身はああいうのは必要な感覚だと思います。

ただ、それは個人の感覚であって、個人個人がそうなったら、社会としてどうなるのか?多くの人が節約志向になると、経済の停滞を招いて、満足するレベルにも達していない人がその機会を失う可能性もある。そのように、個人の感覚と社会の感覚で少し違うと思います。

 Q. 経済成長を続けることは可能ですか、それはなぜですか

有限のものがありますね、地球の資源や環境など。有限のものの中で成長を続けていくと、どこかで成長の限界があるだろう――ローマクラブなどが言っているのはそういうことですね。

だけど、1つは、技術革新で生産性を上げていくこと。技術は無形の知恵ですから、ある意味、限界は想定しにくい。だから、有限の資源と環境の下でも、成長することが不可能とは思っていません。それがいいかどうかは、前の質問になると思いますが。

インプットとして、あるいはそれを受け入れる土台としての資源や環境が有限であるということは、意識する必要はある。ただ、それを突破する技術は、可能性としてはあると思います。だから、「技術革新による生産性の向上」ということを言っているわけです。

技術革新ではない別の問題、人口問題もありますね。人口が増えていくと、1人当たりが同じレベルでも、総量は増えていきますね。これはしかし、望ましいことではない。では、どうコントロールするか? 難しい問題です。

Q. 経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか

ものすごくあると思います。資源枯渇がそうであるし、環境破壊がそうです。最近ピケティさんの言っている「格差」もありますね。人の満足度とは相対的なものという側面もありますから。格差の問題は深刻だと思います。

なぜ犠牲が生じるか。資源と環境の問題は有限性からくると思いますし、地球規模ではなくても、もっとローカルでも、みながオープンな経済を営んでいるわけではないから、地球規模の制約以外の、もっと身近な制約もわれわれは受けると思う。ローカルな資源がなくなるとか、ローカルな環境が破壊されるような犠牲があると思います。

格差はなぜ生じるか......自問自答になりますが、成長というのは循環的なものです。資産があれば投資して、投資で資産を増やす。ある程度そのサイクルに乗れば成長していくけど、そうでない人たちは、いつまでたっても貧しいままです。つまり、フィードバックに自己増殖性があるので、差が生じる。格差はそういうところから出るのかなと思います。そこで社会的な再配分などの対応が必要になってくるのではないか。

Q. 日本がこれまで経済成長を続ける中で失ったものがあるとしたら何でしょうか

この20年余りを見ると、「経済成長を続ける中で」という仮定そのものが違っているかなという気がしています。経済成長の中でも問題はあったけれども、経済成長が停滞する中での問題も、ここ20年ぐらい、わが国は経験してきているところではないかなという気がします。

失われた20年も、それほど悲惨ではなかったようにも思います。それは、人によって違いますが、一定程度のストックができたからだと思います。だから、フローが少なくても何とかなってきている。

世界を見ると、ヨーロッパのポルトガルとか、イタリアもそうですが、破たん国家に近いと言われても、社会的ストックは非常に素晴らしいものがあるというところもある。そちらにも目を向けたほうがいいと思います。

経済成長を続ける中で起こってきたことでいえば、高度経済成長などの中での公害による健康被害や環境破壊、さきほど言った格差などですね。

礼節もそうです。これは高度経済成長のせいもあるけど、一度失うと、経済成長しなくなっても失ったままです。礼儀正しい日本人というイメージがなくなったのは、アメリカン・マインドの影響なんですかね。そういう文化的なものが失われているような気がします。

Q. 「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると考えますか

難しいですね。「定常経済」のハーマン・デイリーが最近賞をもらったんですね。

Q. ええ、ブループラネット賞を受賞しました。

僕も彼に会って、話をしたことがあります。

やっぱり目標をちゃんと持つことですね。「状態」としての目標です。「より豊かになる」「成長する」という目標ではなくて、その結果として「私は何がしたいのか、何ができるようになりたいのか」。そういうゴールのイメージを持つことが大事です。そうでないと、いつまでたっても走り続けるようなことになる。

ゴールのイメージを、社会全体としても持ちたいし、個人も持つということが、持続可能で幸せな社会を、経済成長の中で自分が意識するためには大事じゃないか。つまりゴール意識。「状態」としてのゴールです。

あとは選択肢ですね。宗教みたいに、「これが一番いいんだよ」とみんなが言って、みんなが納得というのではなくて、それぞれが自分のゴールを持てるというのも、大事なところだと思います。

私は、持続可能で豊かな社会の1つの要因として、経済成長はあるかなと思っています。無限ではないと思うけれども。それなりに豊かになっていると思うけど、この状態でいいというところに来ているわけではない。

Q. いくつか質問させて下さい。途上国はともかく、日本や先進国を考えたときに、まだ経済成長が必要なのか? 途上国には必要だけど、先進国は必要じゃないという領域に入っているのか?

システムとして、成長するという前提で世の中がつくられているようなところがありますよね。将来の成長があるから、将来から借金して、将来払いましょうと、そういう社会制度がいくつかあるわけです。年金もそうです。そういう社会制度を、成長がない場合にも機能するような工夫がないと、現状のレベルで止まっていいとは、なかなか言いにくい。

ただ、人口が減少する日本の場合は微妙なところです。若い人が減って老人が増えるという減少なので、困るわけですね。バランスよく減少していけば、steady-state(定常)状態はできると思いますが、過渡期のマネジメントが難しいと思います。

   Q. 技術によって生産性向上をはかるということですが、いくら生産性が上がっても、資源消費量や環境負荷がゼロにならない限り、生産性向上で延命はできるけど、どこかで限界にぶつかるのではないでしょうか。

ハーマン・デイリーの持続可能性の3原則がありますね。枯渇性資源を使うのなら、その分、再生可能資源に転換していくとか、廃棄物は自然界で新陳代謝されるスピードの範囲内で出すとか。

技術で、この3原則を維持できる範囲を広げることができます。たとえば、枯渇性資源の減少分を再生可能資源で補うことも、物質についてならリサイクル技術で限界を拡大できます。もちろん、理論的な限界はあり、本質的な制約になるのはエネルギー利用量ですが、太陽エネルギーの規模や核融合技術を考えると、人間界のスケールでは実質的に無限といえる拡大が可能です。

だから、できるかできないかということでは、さきほど答えたように、「できないとはいえない」と思っています。望ましいかどうかは別ですが。「資源や環境が有限だったら成長も有限です」というのは自明の結論ではないと思います。

    

●インタビューを終えて

エネルギーの委員会などでご一緒させていただくことの多い山地先生に、経済成長について、特に技術による可能性をおうかがいしたいと思っていました。インタビューが実現してとてもうれしいです。

経済成長というと、GDP、GNPを思い浮かべますが、そういったフローだけではなく、自然資本や環境も含めての資産=「ストック」の増大も経済成長だと考えている、というご指摘、本当にそうだと思いますし、フローだけをはかるのではなく、ストックも測って発表して他国とも比較するようになっていけば、人々の関心や大事にするものも変わってくるのだろうと思います。

「技術の力があれば経済成長は続けられる」と言う方も多いのですが、私自身は「経済が地球から何を取り出し、何かを地球に排出している限り、技術の力で限界を先延ばしすることはできても、成長を続ける限り、いつかは限界にぶつかる」と考えています。この点をお聞きしたところ、「インプットとして、あるいはそれを受け入れる土台としての資源や環境が有限であるということは、意識する必要はある」――ここの認識は同じです。

「ただ、それを突破する技術は、可能性としてはある」。さらにお聞きすると、「できないとはいえない」「資源や環境が有限だったら成長も有限というのは自明の結論ではない」というお答えでした。あとで振り返っていて、「できないとはいえない」けど「できるともいえない」ということなのだろうか、と思いました。

科学的には「100%」の確率で断言することは(きちんと証明されているなどの場合をのぞいて)できない、ということは、温暖化をめぐる科学からも教えられました。山地先生の「供給源・吸収源が有限であっても、無限の経済成長はできないとはいえない」という答えも、「100%できないとは(科学的に)いえない」ということなのかなあ、と思います。

としたら、温暖化懐疑論に対しての考え方としての「リスクマネジメント」と同じ観点から考えるのがよいのでしょうか? 

「温暖化の科学を信じて手を打った場合と、懐疑論を信じて手を打たなかった場合」「実際に、温暖化が起こっていた場合と、温暖化が起こっていなかった場合」の2つの軸で4象限を考え、それぞれのリスクを比較してみます。

「手を打たずに、温暖化が起こっていた場合」の不可逆的で甚大なリスクと、「手を打って、温暖化は起こっていなかった場合」の経済的なコストなどのリスクを比べたとき、特に、温暖化対策の打ち手は、省エネや再エネなど、温暖化がなかったとしても資源枯渇対策や地域のレジリエンスなどのためにも進めるべきことを考えれば、温暖化を信じていてもいなくても、リスクマネジメントとして、対策をとるべきだと考える、という考え方です。

これを経済成長に当てはめてみると、「技術を信じて経済成長を続ける場合と、経済成長を続けない場合」という軸と、「実際に、技術が限界を突破できた場合と、できなかった場合」という軸で、4象限ができます。

「技術を信じて経済成長を続けて、実際には技術では限界が突破できなかった場合」のリスクと、「経済成長を続けることをやめ、実際には技術で限界が突破できた場合」のリスクを比べて、みなさんはどう思われるでしょうか?

もう1つ、山地先生のインタビューで「なるほど!」と思ったことがあります。

それは、「成長する」という目標ではなくて、その結果として「どうありたいのか」という「状態」としての目標・ゴールのイメージを持つことが大事、というご指摘です。

「そうでないと、いつまでたっても走り続けるようなことになる」――多くの個人も社会全体としても、まさにそういう状態ではないかと思いました。「状態としてのゴール」をもっとみんなで語り合い、議論していくことが大事だなあと改めて思いました。

最後に、「経済成長で失ったもの」について、「礼節」というお答えを聞き、「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い出しました。「衣食足りて、礼節を失わせる」経済成長とは、何なのだろう?とまたまた疑問符が大きくなった気がします。

いろいろな気づきや考えを深めるきっかけをいただき、感謝しています。

(以上)

 

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